国木田独歩はタナトフォビア(死恐怖症)だった?
ある「体験」
たとえば宇宙に関する本を読んで、その空間的な広がりや、時間単位の途方もなさに、唖然とさせられる。そんな夜に布団の中で考え事をし出すと、ますます目がさえて寝付けない。
広大な宇宙空間の片隅に、ほんの一瞬光って消えるような、儚い自分のいのち。その「存在価値」は?
自分が「無」となった後に流れるであろう膨大な時間・・・何億年、何兆年も、時間は流れ、いつか地球どころか太陽も消え、そしてこの宇宙自体もビッグクランチ(収束)してしまうという。
これは作り話ではなく、最新の科学の見解であり、「現実」なのだ、と実感した時、「死にたくない、『無』になりたくない、こわい、こわい」と一種のパニック状態になり、電気をつけて飛び起きてしまう。私は一人暮らしなので、助けを求められる人がいない。もし隣に誰か寝ていれば起こしているだろう。
誰も分かってくれない
同じ体験をした人に会ったことがない。ある友人にかなり詳しくその体験を伝えたが、「分からない」とのことだった。
ある時、タナトフォビア(死恐怖症)という言葉を知った。学問的にあまり追究されていないようで、確固とした定義もないようだ。私は、上に書いたようなパニック状態になることをタナトフォビアというのだと、自分なりに定義した。
こんなにも心理的に危ない状態になるというのに、学問上そのメカニズムが解明どころか、問題にもされていない、また社会の中でも公に話されることがないことに、私はいつも違和感をもっていた。
ネット上の「同士」
ネットで「死ぬのが怖い」「タナトフォビア」と検索すると、質問サイトや匿名掲示板で、やっと自分と同じ体験をしている人達を見つけた。「自分だけではない」と分かっただけで、少し救われた。
しかし、質問サイトでの、その切実な質問に対し、ほぼ全ての回答者は「体験をしていない人々」であって、正論を言っているのだけれど、「体験」をしている側からするとかなり頓珍漢な回答だった。
今から10年前(2005年6月)、大学生の私は「体験」のことをブログに書いた。
大学を卒業してからは、また別のブログを作った。
「死ぬのが怖い」というアカウント名のツイッターも始めた。
これらの取り組みは、ネット上の「同士」と体験を「共感」するためのものだった。
国木田独歩、晩年の「絶唱」
2015年の今、30歳になった私の心はなぜか、落ち着いている。ここ3年くらい、「体験」に陥っていない。不思議だ。よくわからないが、日本古来の「無常感」や、「荘子」の思想、また夏目漱石が「則天去私」、森鴎外が「諦念」と言ったこと等に興味が湧いてきている。古の人々が、死や、命の儚さに苦しみながらも、思考を巡らせてきたことが分かってきて、なぜか落ち着いている。
最後に最近読んだ本を紹介する。この本で、国木田独歩は晩年、「タナトフォビア」だったのかもしれない、と思った。
「かなしみ」の哲学―日本精神史の源をさぐる (NHKブックス)
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国木田独歩の引用箇所を、さらに引用。
要するに悉(みな)、逝けるなり!
在らず、彼らは在らず。
秋の入日あかあかと田面(たのも)に残り
野分はげしく颯々(さつさつ)と梢を払う
うらがなし、ああうらがなし。
水とすむ大空かぎりなく
夢のごと淡き山々遠く
かくて日は、ああ斯くてこの日は
古(いにしえ)も暮れゆきしか、今もまた!
哀し、哀し、我が心哀し。
(「秋の入日」)
無窮の時間、無窮の空間に包まれたる人生は実に不思議なり。無窮の時間と空間が人間の思想に不思議と認めらるる限りは人生は不思議なるなり。
嗚呼タイム。すべてのものこの永劫の海に浮沈生滅す。
嗚呼幻なるかな、時!昨日昨夜何処にある。すべての過去何処にある。吾!これ幻なるかな。嗚呼吾の生存を感ず。
この現存する吾!このタイム。この無窮!知らず、相関するの深意は如何。
(『欺かざるの記』)
不思議なる世界、不思議なる生命。不思議なる人間の世。
習慣と煩悩とは吾をしてこの不思議を忘れしむ。・・・・・・
すべての最初はこの不思議を極感するにあり。
(『欺かざるの記』)