平安時代

倭歌(やまとうた)は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に、思ふことを、見るも聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をもいれずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをうな)の仲をもやはらげ、猛き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。

(和歌は、人の心を種として、それが生長して様々な言葉になったものである。この世の中に生きている人は、関わり合いになる出来事や行動が多いので、それらについて心に思ったことを、見るものや聞くものに託して、言葉で表現しているのである。花の枝で鳴く鶯や、川に住む河鹿蛙の声を聞くと、いったいどんな生き物が歌を詠まないだろうか。いやすべての生き物が感動して歌を詠むのだ。力を入れないで、天と地を動かし、目に見えない恐ろしい神や霊を感動させ、男女の仲を親しくし、勇猛な武士の心を慰めるものは、やはり歌なのである。)

(中島輝賢編『古今和歌集』、二〇〇七)

 

賀茂真淵が「手弱女(たおやめ)ぶり」と批判した『古今和歌集』であるが、右の「仮名序」は、弱々しいどころか、実に雄大で、壮大で、威風堂々としている。

私は、平安時代を、みやび、あはれ、繊細、といったイメージだけに閉じ込めるのは、もったいないと思う。平安時代こそは、人間の精神が極限まで磨かれた時代であり、そこには、「優美さ」や「繊細さ」があり、同時に、「力強さ」や「勇猛さ」もある。この時代には、全ての価値が、美しく、揃っている。

 

平安時代の「力強さ」「勇猛さ」は、たとえば空海の生き方に表れている。

空海は少年の頃から漢学をよく学び、成績は優秀、当時の官吏養成の最高機関である「大学寮」に入学した。そこで血のにじむほど勉学に励んだ空海だが、「こうした学問は単に世に処するためのもので、人生の真の理想を探求するものではない」と考えるようになり、ついに中退してしまう。その後、二十四歳の時、戯曲形式の比較宗教論である『三教指帰』を執筆し、仏道修行に専心していく。修行の中で密教経典『大日経』に出合い、これこそが自分の求めていたものだと確信した空海は、密教を学ぶために中国留学を希望し、三十一歳の時に留学生に選ばれる。

船旅の末、辿りついた長安で、空海は恵果和尚の教えを受けることになる。恵果は空海の才能を見込んで全てを惜しみなく授け、そして、空海が学ぶべきものを学び終えるや否や、体調を悪くし、この世を去ってしまった。恵果は最期の時、空海に、早く日本に帰って密教を広め、人々を救済し、国家を安泰に導くように伝えた。しかし当時の定めでは、留学生は中国に二十年滞在することが義務となっており、わずか三年で帰ることは罪を犯すことに等しい。空海は思案の結果、「大忠大孝」の道を選び、師の遺言にしたがって帰国することを決めた。

案の定日本の朝廷ではこの事情は理解されなかった。空海は帰国後四年間、都に入ることを許されず、大宰府に留まるしかなかった。平城天皇が譲位し、嵯峨天皇が即位してようやく入京が許され、空海高雄山寺に入住し、弟子達に密教を指導して過ごした。

四十歳を過ぎた空海は、本格的に密教を広めるため、修行場として高野山を賜りたいとの趣旨の上奏文を朝廷に差し出した。間もなくこれが認められ、以後、空海高野山に住み、山中で伽藍の建立や執筆活動に力を注いだ。

四十八歳の時、空海の故郷である讃岐の郡司達は、ため池の堤防修築の別当に、空海を迎えたい旨の願書を朝廷に提出した。これが認められると、空海は直ちに故郷に向けて旅立ち、わずか三か月の滞在期間で改修工事を完了させてしまう。この「万濃池」は、現在でも灌漑用のため池として、日本最大規模を誇る。

五十五歳の時、空海は「綜芸種智院式並序」を著し、世界初の、庶民のための民間学校を設立する。その特色は、①誰もが自由に学びたいものを学べる、②幅広く専門以外のことを学び、視野の広い人物を養成する、③完全給費制の三つであり、現在の教育基本法ときわめて類似していることに驚かされる。この綜芸種智院の開設は、わが国の教育史上に重要な意味をもっている。

(以上、参考にしたのは、加藤精一『空海入門』、二〇一二)

加藤精一氏は、空海を「引きずられない人」と評する。空海は、いくつかの重要な節目において、かなり強い決断をくだしているが、なにか特定の教義に従っている訳ではない。宗教家に特有の「狭さ」はどこにも感じられず、常に柔軟な発想で、こだわりなく、悠々と真実の大道を歩み続けている。たとえば、大学に入学し、立身出世が約束されている身であるにも関わらず、そのような世間の価値観には引きずられず、あっさりと中退してしまう。また、中国から帰国する際も、国家権力に引きずられることなく、自分の志を貫いて三年での帰国を果たした。その生き方は、真っすぐで、まことに爽やかだ。

密教という、神秘的かつ難解な教えを学び、人に指導しながらも、万濃池の改修や綜芸種智院の開設等、行動はきわめて具体的で、純粋に人のためになることをやった。千年以上前の時代に、これほどダイナミックな生き方をした人がいる、ということに、私は感動してやまない。平安時代とは、これほどの人物が生まれ得る時代だったのだ。

 

平安時代は貴族が政権を担った時代である。平安貴族は、「儀礼」や「教養」に価値をおく生活を営んでおり、その政策も「文化」を重視するものだった。たとえば、弘仁五年(八一四年)、嵯峨天皇の命により初の勅撰漢詩集『凌雲集』が、延喜五年(九〇五年)に、醍醐天皇の命によって初の勅撰和歌集古今和歌集』が編纂される。『古今和歌集』は、全二十巻、総勢一一一一首あり、それが「春の歌」「秋の歌」あるいは「恋歌」「哀傷歌」という様に、季節や場面によって、整然と分けられている。これ程の事業を行うには、相当な時間と労力がかかったに違いない。また、これは国の事業か不明だが、平安後期に、当時のあらゆる物語を集めた『今昔物語集』が作られ、全三十一巻にもなる。これほど広範に、網羅的に、詩や物語を集め、後世に残そうとした平安人の営為に、「文化」というものに対する情熱を感じる。

 

文化事業が大規模であれば、個々の作品も、「大作」揃いだ。『源氏物語』は、全五十四帖から成る、世界最古の長編小説である。なぜ世界最古かというと、それまで、神話や叙事詩、戯曲、歴史書といった書物は世界各地にあったが、「散文で作成された虚構の物語」かつ「主題があって話の展開に必然性がある」ものは、なかった。そのような書物は、源氏物語以降、「近代小説」の登場まで待たなければならない。しかし、その近代小説においても、源氏物語並みの長大な構成を持つものは少ないし、言葉の美しさ、主題の深淵さにおいては、未だ超えられていないとも言える。川端康成は次のような言葉を残している。「「源氏物語」に集大成された王朝の美は、その後の日本の美の流れとなったのです。わたくしは若い時に、「源氏物語」は藤原氏を亡ぼし、平家を亡ぼし、北条氏を亡ぼし、足利氏を亡ぼし、徳川氏を亡ぼした、と言ったことがありました。ずいぶん乱暴なようですが、まったく根拠がないわけでもありません。「源氏物語」のように宮廷生活が爛熟すれば、もう衰亡は必至です。爛熟という言葉には、すでに衰えの兆があるという意味がふくまれていましょう。「源氏物語」は爛熟が極まって頽廃に傾こうとする、言わば一つの文化が上り切った頂から、まさに下ろうとする、いや、上りつめてまだ上ってゆくように見えながら、じつはもう下りかかっている、そういうあぶない時に生まれたのです。」(「日本文学の美」『毎日新聞』、一九六九)

 

絵画においても、この時代に、表現技法が「頂点まで上りつめた」のだと言える。映画監督の高畑勲氏は、平安絵巻について以下のように解説している。「連続式絵巻は、十二世紀後半の京都で、歴史的転換期を目撃しつつあった絵師(僧侶・宮廷人)たちが、内外の先行美術作品や、自作の記録的絵巻や、私的な戯画など、様々な経験の蓄積から表現法のヒントを得て、まったく新しい「時間的視覚芸術」の可能性に目覚め、おそらく後白河法皇のプロデュースのもとに、当時書物としてまとめられていた説話のうち、これならば面白いものになりうるという題材だけを選び、物語性のある「時間的視覚芸術」を創造しようという明確な意図をもって、意志的自覚的に生み出したのだ」(『十二世紀のアニメーション』、一九九九)源氏物語が世界最古の小説であるのと同じく、絵巻のような「時間的視覚芸術」は、それまで世界になかったものであり、ここにおいても、平安人は新しいものを「発明」してしまっている。

私は、昨年八月から毎週日曜、都内で開かれている日本画教室に通っている。『信貴山縁起絵巻』や『吉備大臣入唐絵巻』を模写しているのだが、そこで描かれている人物の表情や、自然の「写実性」に驚かされる。それも、西洋絵画のように遠近法や立体表現を使わず、あくまで「輪郭線」によって世界をリアルに表現している。それは、現代のマンガやアニメと非常に似ているが、運筆の息遣いや、着彩の微かなニュアンス等、マンガやアニメには見られない高度な工夫が施されており、私は、絵巻表現の先進性に、日々感動している。

 

「文化的創造性」が極まった平安時代は、武士の台頭によって終わりを迎える。利害関係の問題解決に、有形的手段(軍事力)を使うことが多くなり、為政者は武力の統制に頭を使わなくてはいけなくなった。相対的に文化への関心は薄れていく。

同じ頃に宋銭が大量に輸入され、わが国において本格的な貨幣経済が始まる。その後の歴史において、貨幣のパワーは衰えることなく、ますます強くなっていき、その延長線上に現代がある。「金銭至上主義」ともいえる現代において、人は常にマネーを気にして生きなければならず、二度と、あの頃のような創造性を、発揮することはできなくなってしまった。