映画『百日紅(さるすべり)~Miss HOKUSAI~』 - なぜ阿弥陀仏は人を踏み潰したのか

5月10日(日)に見て参りました。

sarusuberi-movie.com

北斎「最果てが見たい」

椎名林檎による主題歌のタイトル「最果てが見たい」は、主人公お栄の父親、葛飾北斎の言葉のように感じます。死に臨み、あと十年、いやせめて五年生かしてくれれば「真正の画工」になってみせると、最期まで表現の追求をやめなかった画狂老人の姿が思い浮かびます。

曲の詞の中に「生命を越えて本当の未踏の地へ」とありますが、これも北斎やお栄の、絵師としての生き方を表しているように感じます。

画を描くということは、想像力をつかい、この世の法則や決まりごとから自由になることで、誰も見たことのないものを現出させることです。現実の風景を正確に記録に残すのなら、写真で十分です。現実に見えないものを見えるようにするからこそ、画を描く意味があるのです。そもそも江戸時代に写真はありませんが、北斎とお栄が目指したのは、写実主義ではなく、間違いなく「この世を越え出る」ことでした。

(※以下ネタバレあり)

この映画自体も、「アニメ」という技法を取ることで、実写にはできないことに挑戦しています。冒頭の両国橋から一気に俯瞰で江戸の全景を見せるショット、船が北斎画(神奈川沖浪裏)の波に乗るシーン、物の怪が登場するシーンなど、「エンタテインメントに徹して大サービスしたつもりです」と監督自身が語っています。

「エンタテインメントに徹して大サービスしたつもりです(笑)」 『百日紅〈さるすべり〉~Miss HOKUSAI~』 原恵一監督インタビュー - インタビュー&レポート | ぴあ関西版WEB

なぜ地獄絵図を飾るのか

地獄絵図に怯える奥方のエピソードが出てきますが、そもそも何故、当時の人は地獄絵図という、見ていて心地よくないものを、描いたり、飾ったりしていたのでしょう。

ある展覧会での地獄絵図の説明文に「死後の世界を描き、自分の手中に収めることによって、その恐怖を克服しようとした」とありました。

死後どうなるかということは、現代に至っても決定的な解答は出ていません。わからないものに悩み続けると、人は思考やエネルギーを奪われ、生活を健康的に送れなくなります。そこで、物語が必要なのです。科学的な整合性より、「信じられるか」が重要です。深く考えず、自分の中にスッと入ってくる物語を「一旦、信じておく」ことで、「世の中とはこういうものだ」「死んだらこうなるんだ」と感覚的なレベルで納得でき、恐怖を「一旦、保留」することができるのです。

ただ、あまりに一方的で、解釈の余地のない物語というのは、人を不安にさせます。鉄蔵(北斎)がお栄の地獄絵図に観音様を書き足したのは、物語に解釈の幅を与えたということです。端に小さく付け加えただけですが、これによって、奥方は自分なりの解釈で物語の中に「救い」を見つけたのです。物語にはリアリティがなければなりません。幸/不幸、聖/俗、快/不快、二面性があってリアルなのです。どちらかの一面だけでは、「作り物」になってしまいます。この映画自体も、深いテーマを扱いながら、人間の俗な面も描いて、バランスを取っているように感じました。

なぜ阿弥陀仏は人を踏み潰したのか

男娼の夢に出てきた山越阿弥陀のエピソードも、ある意味リアリティを担保しています。仏に祈れば100%救われるかというと実際はそうではないのです。運命は、時に残酷なまでに「無情」です。仏に救われて、めでたしめでたしの物語だけでは、バランスが悪いのです。

物語は、「不条理」 にも応えるものでなくてはなりません。なぜなら、現実世界は論理で説明できることだけでできていないからです。というよりも、人間が、論理的説明だけでは納得できないからです。大切な人を交通事故で亡くした時、なぜその人が死んだかについて、「頭を強く打ったから」という説明をしても、心は静まりません。なぜ、その人が死ななければならなかったのか?について、科学では答えられません。それに答えるのは物語なのです。

お栄の妹、お猶が逝ってしまった後、鉄蔵は「俺がお猶の目も命も奪ってしまったんだなあ」とつぶやきます。不幸を、自らの「業」の深さゆえだと解釈したのです。

お栄も鉄蔵も母も、泣きわめいたりしませんでした。ただ、静かにそのシーンは過ぎていきました。死に対してこのような達観した態度が取れるのは、三人が「物語」を深く理解しているゆえなのだと思います。

そっちの世界はどうだ?

ラストシーンで、お栄が夜空に向かって(正確な台詞は憶えていませんが、たしか)「そっちの世界はどうだ?」と呼びかけます。このように、死者に呼びかけること、死者と交流を持つことは、実は独特の宗教観なのです。キリスト教イスラム教文化圏では、死者と交流を持つことは、基本的にネガティブにとらえられます。それに対して日本では、現代でも家の中に仏壇を置いて先祖への「呼びかけ」を行う習慣が続いているように、死者が「身近」であり、いつでもコミュニケーション可能なのです。

花魁の首がニュ~ッと伸びて「幽体離脱」するエピソードがありました。これも、「あの世とこの世」の行き来を想像させます。生きながらにして、あの世に「首をつっこむ」こともできる世界観なのです。

百日紅の下で、金魚を見つめているお猶の絵。背景が可愛い桃色で、なんだかとても「幸せな時間」が流れています。金魚を「見つめている」ということは、お猶の目は、見えているのでしょうか・・・この絵は、お栄が創った「現実」なのです。

「生命を越えて本当の未踏の地へ」向かうということ。

それは、素敵だったどなたかが、もしもいま、まだお元気でいらしたら、何を見て何を思い、何を目指していらっしゃるだろう。それを考え、恥じ、省み、やっぱり生きることなのだと思い至るのでした。

椎名林檎、映画公式サイト内「百日紅~Miss HOKUSAI~」およびその主題歌について」)

画を描くということは、これまで見たように「この世を越え出ること」あるいは「物語を紡ぐこと」でした。つまりは、「現実を多層化すること」なのです。光学的に眼に映るものだけが「現実」ではないのです。喜び、悲しみ、怒り等の感情、愛や希望、何かにとらわれること、思い込み、何かへの畏れ、恐怖・・・そういう「気持ち」に「現実」は彩られるのであり、それを写し取った絵からは、逆にその「気持ち」が立ち現れます。そういう意味で、画を描くということは、技術ではなく、儀式なのです。

金魚を見つめるお猶の絵から、お栄の切実な気持ちが伝わってきて、涙をこらえるのに必死でした。本当に、感動的なラストでした。

百日紅 ?Miss HOKUSAI? オフィシャルガイドブック

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