自己承認欲求

私が大学を卒業する時に提出した論文のタイトルは、『進化論的アプローチによる自己意識の起源に関する考究』である。「進化心理学」の説を支持しながら、人間の自己意識の成立過程を考察した。「進化心理学」とは、生物の諸器官の成り立ちが、個体と環境の相互作用という「進化」の概念によって説明できるのと同様に、人間が持つ心の機能も、進化のメカニズムによって説明し得るという考え方だ。

なぜそんな卒論を書いたのか?私は、自己意識という心の機能こそが、自分がこの世に存在しているという事をありありと感じるための、重要な基盤だと考えることが度々あり、それについて深く知りたいと思ったからだ。

たとえば深い眠りについた時、自己意識は停止する。寝ている間に時間の経過を感じることができないのは、意識が停止しているからだ。もし私が何らかの事故によりずっと深い眠りに入ったら、私の身体はそこにあるが、それは私が存在しているといえるだろうか。他人はまるでそこに私がいるかのように認識するかもしれないが、私にとって、私はもういない。そこには「物」があるだけで、私はいないのだ。同様に、アルコールを飲んで酩酊状態になった時、自己意識は停止するか非常に弱くなる。酩酊状態の私が取る行動は他人から見たら私の行動だが、私にとっては私の行動ではない。なぜなら酩酊状態の私は、自分の行動を記憶したり、判断したりしていないからだ。つまり、そこには「動く物」があるだけで、私はいない。そこに私は生きていない。

「私」がこの世で生きているといえるのは、自己意識が機能しているからこそだと考える。自分が何者であるかを客観的に認識したり、過去・現在・未来の時間軸の中で自分の置かれている状態を見つめたり、次の行動を判断したりすることが、自分がこの世に存在するという実感につながっていると私は考える。

この「存在実感の基盤」である自己意識は、ある日突然人類に与えられたものではない。自己意識が地球上に誕生するまでには、それなりの経緯があったはずだ。それを自然科学的手法で考察し、納得したかったのだ。

先行研究は心理学者ニコラス・ハンフリーの霊長類の研究だ(The Inner Eye, 1986)。ハンフリーは野生のゴリラを観察し、その行動が飼育されているゴリラと比べて知的に劣ることを発見した。彼は最初そのことを不思議に思ったが調査を進めるうちに、飼育されているゴリラは野生のゴリラに比べ「社会的な問題」に頭脳を使っていることに注目した。たとえば、誰が誰を毛繕いするかとか、誰が一番いい寝場所で眠るかといったことに彼らは絶えず気を遣っている。そして、このような社会的な技術の発達が、人類の祖先の知能を進化させたのではないかと考えた。周囲の個体と自分をうまく関係づけることのできた者が生き残り、それができない者は絶滅した。このような長い淘汰の歴史の中で、人類の脳と心はゆっくりと形づくられてきたという訳だ。

もう一つの先行研究はウルリック・ナイサーの提唱した「自己の五段階モデル」だ(Five Kind of Self-knowledge,1988)。ナイサーは発達心理学の立場から「自己」を五段階に質的に区分した(生態的自己・対人的自己・時間的拡大自己・私的自己・概念的自己)。たとえば、「生態的自己」とは、物理的環境の知覚にもとづく自己であり、この自己によって個体は環境における自分の位置を把握することができる。一方、「概念的自己」とは、国籍、親族関係、職業、得意なこと、苦手なこと等の要素によって他人から区別できる自分自身の特徴のことだ。このように、「自己」といっても様々な事象を指す言葉なのだが、それを幼児の成長過程に合わせて五段階に分類・整理したところにナイサーの研究の意義がある。

私はハンフリーの進化心理学の考え方を支持しながら、ナイサーの五段階モデルを応用し、自己意識の進化を段階的にとらえる視点を採用した。ナイサーは一人の人間の成長過程からモデルを定義したが、このモデルは進化の過程にも使えると私は考えた。ギアリー、デネットトマセロ、プレマック、ミズン、アイエロ、ダンバーらの文献を参照しながら、進化のそれぞれの段階で人類がどのような認知能力を獲得したかを考察し、最後に、現生人類の持つ自己意識とはこれらの認知能力によって構成される複合体であるという仮説を立てて論文を締めくくった。

 

卒論を書きながら、自己意識というのは本当に人類に特有のもので、他の動物は持っているかどうか疑わしいということを改めて思った。犬や猫を飼っている人には申し訳ないが、彼らが意志のある行動を取っているかのように振る舞う時も、おそらくそこには私達が思う程の自己意識は、実際には存在していない。人間は名を名乗れるし、自分の身分を理解できるし、また、過去に取った行動を想起し、未来において自分がどうなるかシミュレーションすることもできる。一方、犬や猫がそれと同じことができているかというと、そうは思えない。

進化の「なりゆき」で偶然にも自己意識を獲得してしまった人類。そのおかげで、私達は自分という存在が世界に生きていることをはっきりと実感できる。一方、このことは不幸の始まりともいえる。自分という個体を客観的に認識できるから、それを意識的に大切に扱う。自分と他人の差異がわかるから、その存在の比類なさを感じ、愛おしく思う。そして様々な欲が生まれる。さらに自分が不利な立場にいるとわかると心理的な支障をきたす・・・。犬や猫は人類程の自己意識を持っていないから、このような欲や執着、複雑な葛藤は見られない。その行動はすっきりしている。

アブラハム・マズローは人間の欲求を、生理的欲求・安全の欲求・社会的欲求・承認の欲求・自己実現の欲求の五段階に理論化した(図1)が、私はこのモデルとは違う見方を持っている。

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以下は卒論の話とは別で比較的最近思いついたことだが、まず人間の食欲や性欲は動物の本能と違う。動物が食物を得るために動いたり、配偶者に近づいたりする行動は、脳に刷り込まれた行動で、いわば「反応」に近い。それは体内のバロメーターや外界の刺激が特定の条件を満たした時に自動的に発現する。それに対し人間の欲はもっと意識的だ。欲する対象を意識している。対象を意識するから、それを手に入れることが目的化し、手に入れること自体が快感になったりする。動物は行動の結果、体内のバロメーターが基準値に戻ればそれ以上の行動はしないのに対し、人間は対象を得ること自体にこだわり、得たいという気持ちを際限なく増幅させ、体内のバロメーター周期を逸脱して過剰に行動する。精神分析学者の岸田秀は「人間は本能が壊れて幻想の中に住む動物である」と言ったが、言い得て妙だ。食や性に関わる欲を動物の本能と同次元に扱う議論がよく見られるが、欲という心の働きは、動物の本能より高次で複雑だと私は考える。

人間の持つ「自己承認欲求」というものも食欲や性欲と同列だ。食欲や性欲が、対象を得ること自体に快を感じて、際限なく過剰にそれを求めるのと同じように、自己承認欲求とは、自分が人から認められたり、尊敬されたりする状況に快を感じて、それを目的として過剰な行動を取ることだ。

以上の私の考えをまとめると図2のようになる。まず無意識的な「本能」と意識的な「欲」を別物として区別する。その上で、食欲、性欲、自己承認欲求といった各種の欲は、どれが低次でどれが高次といったことはなく同列に並んでおり、時期・場面によって、それぞれ強くなったり、弱くなったりを繰り返している。また、食欲が異常に強い人がいる等、欲には個人差があることも付け加えておく。

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自己承認欲求について考える。それは、自分が集団から価値のある存在と認められることを求める欲求だが、認められるための「手段」は様々だ。すぐに思いつくだけでも三つある。一つ目は「地位」。社会の中で立派とされる職業に就いたり、豊かな経済状態になったりすることで、人から称賛を得ようとするものだ。二つ目は「容姿」。自分の顔や体に自信があり、それを人に見せることで注目を集めようとするものだ。そして三つ目に「センス」があると私は考える。ものの考え方や表現が、何か他の人と違うと感じた時に、その人のことを「センスがある」と言う。学者や芸術家に限らず、スポーツ選手やビジネスパーソンにおいても、何か人とは違うことをやってやろうという気概のある人がいる。そういう人達は、センスによって自分の存在を確立したいのだと思う。

私はセンスで勝負する人達の知的な取り組みを見ると感動する。よく練られたもの、複雑なもの、驚きがあるもの・・・。そういうものに触れると、私も何か作りたいと思う。いつか私の肉体は滅び無になる。どうせ無になるなら、生きているうちに何か複雑で変なことをして去っていきたい。「私が存在した証」を何らかの形で残したい。未来人が見たら、何でこんな変なものを作ったのだと理解に苦しむくらいのものを残したい。そういう意味で、私は強い自己承認欲求にとらわれている。

小学校の卒業式にて、証書を受け取る時に自分の将来の夢をひとこと言うことになったのだが、私は、「発明家になって、世の中の役に立つものを作ります」と言った。この気持ちは今でも変わらない。私は、人に驚きを与える発明家になりたい。