熊野灘

一昨年の十一月、ふと小金井市江戸東京たてもの園に出かけた。ちょうど特別展「ジブリの立体建造物展」が開催中で、ジブリ作品のイメージボードや背景画を楽しんだ。展示の途中で、展覧会監修者の建築家、藤森照信氏のコメントが貼ってあった。「人間は毎日、無意識に、寝る前と起きたときの目に映るもので「変わっていない」ことを確認して、ときどき古いもの、まわりの変わらないものを見ることで「自分が自分である」という確認作業をしている、というのが僕の考えなんです。自分というものの時間的な連続性を、建物や風景で無意識に確認している。そしてアイデンティティ、つまり「自分が自分である」ということを確認できているから人間は生きていられるんです。だから僕らが宮崎さんの映画を観て懐かしいと感じるのは、そこに、自分たちのいる社会の連続性を感じてホッとするからなんだと思います。」(『ジブリの立体建造物展 図録』、二〇一四)

このコメントは私に、その頃読んでいた本(竹内整一『「かなしみ」の哲学』、二〇〇九)で紹介されていた、詩人の西脇順三郎の言葉を想起させた。「私は文化ということは単に学問の進歩でもなく文明の利器の発展でもないと思う。人間が本来の性質にある哀愁感にもどることが一つの大切な文化的精神と思う。自然の風情はひとつの哀愁感で、恋愛の哀愁と同じように人間に先天的にあるような気がする。自然の風情を愛することは東洋でも西洋でも美しい一つの道徳のようなものである。」(「自然の哀愁」『野原をゆく』、一九七二)

両氏の言葉を私なりに解釈すると次のようになる。人は、変わらない風景を見ることで、自分という存在の連続性を確認し、自己を強く意識する。自己を強く意識するから、自分を大切に思い、有限の時間の中で、より高い境地に至ろうと努力する。そうして人は、「何が美しい生き方か」という倫理的な問題に向かい合っていく。だから、そういう意味で、風景を見て哀愁に浸るという行為は、「美しい一つの道徳」なのだと言える。

 

私もこのような「哀愁の力」を感じた事がある。四年前の十月、故郷の熊野での事だ。熊野三山の一つである熊野那智大社、そこからさらに山を登ったところに、妙法山阿弥陀寺というお寺がある。熊野地方では、親族が亡くなった時、その遺髪を妙法山に納める風習がある。現代では火葬が一般的なので、遺髪の代わりに「のど仏」と言われる遺骨を納める事が多く、私の祖父の遺骨も、ここに納められている。帰省した時に、家族でお参りに出かけた。

妙法山に到着し、山門前の見晴らし台からの風景を見た。突き抜けるように青い空の下、雄大な熊野の海と山々が、目の前に広がった。その自然の大きさに、私は心の底から感動した。さらに奥の方を見ると、私の生家がある太地町平見の台地が小さく見えるではないか。その事を家族と嬉しく確認した。

この時に私は、壮大なスケールの自然に比べ、自分が生きてきた暮らしというのは、なんと小さく、ささやかなものであったかということを認識した。天から自分自身を見るような気持ちだった。あの、海にせり出た小さな台地の端に、私の生家があって、そこでは静かで、穏やかで平和な、日常が流れ、ひっそりとした人間の暮らしが営まれていた。私は、自分の幼少期や青春の時間が、今、目の前に広がる空・海・山の中で、一気に過ぎ去ってしまったような気がして、切なかった。日常生活で味わうことのない、不思議な時間感覚があり、感傷と同時に、なんだかとても清々しい、強い気持ちが湧き上がってくるのも感じた。

妙法山からの眺めは、私に驚きと感動を与えるものであったが、同時に「安心感」があった。その安心感が、私をノスタルジーへと誘った。私が安心したのは、山から急に海へとつながる、その独特の地形だ。滅多に見ることのない高さからの見晴らしであっても、この地形には馴染みがあり、「私は今、自分が育った土地にいる」という感覚を覚えるには、十分だった。

谷で刻まれた山地が、地盤の沈下または海面上昇によって沈水し、出入りの複雑な海岸線になっているところを、「リアス式海岸」という。一昨年の年末、家族で台湾を旅行したが、九份(きゅうふん)から見えたリアス式の海岸は、あの時の妙法山からの眺めを私達に想起させ、こんな異国の地であっても、「懐かしい」という感情を抱くことがあるのだということを、共感することができた。

 

民俗学者折口信夫が「釈迢空」名義で出した歌集『海やまのあひだ』には熊野の歌がいくつか収められている。近代文学研究者の持田叙子氏は、この歌集について次のように評している。「歌集全体に強く弱く響く寂寥感は、読む者を人間存在の深淵に対峙せしめて止まない。その意味で、主に羇旅歌に多用される「さびしさ」「かそけさ」「ひそけさ」は『海やまのあひだ』の中心を成す境位として認められる。」(『海やまのあひだ』論、一九八六)

ここで示されている「さびしさ」「かそけさ」「ひそけさ」あるいは「寂寥感」という言葉が、熊野の風景によく合っていると、私は思う。また、この歌集のタイトルからして、山を抜けるといきなり海に出る、熊野の地形の事を言っているように思えてならない。

青黒い黒潮の波が、複雑な形の岩々にぶつかり、荒波を立てる。ただ波音だけが、繰り返し打ち響く。その荒涼とした風情が、世の無常さ、虚しさ、人の悲しみといった感情を、掻き立てる。和歌山の海というと、今では白浜の海水浴場が有名だが、そのような、いわゆる「リゾート地」の海とは違う魅力が、熊野灘にはある。

 

出身地の話になると、「よくもまあ、そんな遠いところから」と驚かれる。東京から名古屋まで新幹線で一時間半、名古屋から紀伊勝浦まで特急南紀で四時間、おそらく、東京から最も遠い地の一つであろう。それにも関わらず、私は、ゴールデンウィークとお盆と正月、毎年欠かさず帰省している。なぜか。それは、自分の「心のリズム」のためである。どういうことかと言うと、私は熊野へ隠れに行っているのだ。

熊野のクマは、物陰の暗い場所を指す「隈(くま)」が原義と言われており、また、コモル(籠る)という語との関係も指摘されている。そういった幽暗な土地のイメージから、神霊や、死者の魂が集まる「隠国(こもりく)」の地であると考えられていた。やがて仏教の世界観と習合し、熊野の海の彼方に、観音菩薩のいます南方浄土(補陀落)があるという信仰が興り、幾人もの行者が、捨身行として小型の木造船に乗り込み、あの世へ旅立った。

神々の集う、死者の国――。平安末期、時の上皇や貴族は、京の騒擾から一時離れ、心を休めるため、この地に籠りに来た。私も同じく、一年に三回、日の当たる場所から日の当たらない場所へ。この土地の物を食べ、海山を見、空気を吸い、眠ることで、心のリズムを整えている。

 

私の生家の裏には、岬へと続く遊歩道があり、帰省した時にはこの道を、一人、静かに歩くのが日課となっている。片側が崖になっており、木々の隙間から太平洋が見える。むなしく打ち響く波。苔むす道。木漏れ日。まわりには誰もいない。ゆったりとした心持ちになって、子供の頃、この土地で、無心に遊んだことを思い出す。

友達数人と山を探検中、巨大な犬に出合い、一緒に駆け回ったこと。狸の巣を見つけ、そこに秘密基地を作ったこと。山奥に埋もれた江戸時代の墓地を発見したこと・・・。海水浴中、湾に流れ込んだ波にさらわれ、沖まで流されたこと。水中眼鏡で足元を覗くと、サメが泳いでいたこと・・・。

私の意識は、すっかりその時代にまで遡り、気が付くと、母校の歌を頭の中でリフレインさせていた。

 

熊野の海の波の音 遠く聞こゆる教室に 浜木綿の香を運びつつ 風はさやかに通うなり

鯨を追いて昔より 海に生きし町の子の 息高らかに校庭に あふれて声は響くなり

清き水湧く山陰に 浜辺の校舎移し来て 古き歴史を誇りつつ 日々新しく進むなり