死者との交流

三年前、NHKスペシャル『シリーズ東日本大震災 亡き人との“再会”』を見て、大変胸を打たれた。震災で家族を失った人達が、「故人と再会した」体験を語るのだが、その誰もが、大切な人が亡くなった事実に心が囚われているようで、悲しみが切実に伝わってきた。「再会」というのは、たとえば、亡くなった男の子がよく遊んでいたおもちゃが突然、音を鳴らしたとか、故人が夢の中に出てきて声をかけてくれたとか、いわば「主観的」な体験に違いないのだが、それでも各人が、そういった体験を通して、それぞれの納得の仕方で、心を落ち着かせつつある様子が印象的だった。

私は、人間の「死者に囚われる」「死者に拘る」姿に、なぜか引き込まれる。これもNHKスペシャルだったと思うが、昨年、三十年目を迎えた日航ジャンボ機事故の遺族が、「御巣鷹の尾根」に慰霊登山を行うドキュメンタリーを見た。遺族は毎年、山に分け入って大切な人が眠る墓標に向かう。辿りつくと手を合わせ、墓標の手入れをし、家族で写真を撮り、そして山を下って帰る。それが本当に純粋な宗教行為に見えて感動した。大切な人を想う気持ちが、行為として、目に見える形で結晶化しており、人間存在のかけがえなさを感じた。

 

ある時、ネットをしていると、生まれたばかりの赤ちゃんを亡くした女性のブログを見つけた。その女性は、この世に生まれて数時間しか居られなかったその命に対し、まるで長年人生を共にしたかのような、気持ちの入った言葉を投げかけていた。赤ちゃんの葬儀の様子も綴られていたが、本当に心のこもった、丁寧な葬儀の仕方だった。その後、第二子を出産した後も、天国にいる第一子に絶えず言葉をかけており、第二子の成長日記に、常に第一子の事が綴られる。それ程、彼女にとって第一子は、大きな存在になっていたのだ。その、存在の崇高さ、と言おうか、その赤ちゃんと女性の関係性が、不思議で、人間心理の深淵を覗くようだった。

 

このようなドキュメンタリーやブログを見て、一つ気づく事は、日本における「死者の身近さ」である。他の文化圏に比べ、日本においては、故人に対する言葉の投げかけや、なんらかの慰霊行為が多いように思う。宗教学者池上良正氏によると、「日本の社会では、たとえば「鎮魂」「供養」「追悼」「哀悼」「慰霊」「浄霊」など、生者が死者に直接的に働きかけたり、両者がある種の双方向的な関係性のなかで交流すると考えられている機会が広くみられ、今日でもそれをあらわす用語が豊富であることは、否定できない事実である。」「「三大世界宗教」と総称される仏教・キリスト教イスラームは、いずれも死者の個別的運命などは普遍主義的な神や法にゆだねて、遺族があれこれ思い煩うべきではない、という理念では一致していた。(中略)他方、仏教文化圏、とりわけ日本の民衆宗教史においては、身近な死者との直接的な個別交渉の道は温存されたばかりか、むしろ仏教的理念の介入によって積極的に育てられ、煽られ、強化される傾向さえみられたのである。」(『日本における「死者の身近さ」をめぐって』、二〇〇六)

日本人は無宗教、と言われることがあるが、それは特定の教義を信じていないからそう見えるのであって、実際は、世界には類を見ない程、信心深い暮らしぶりをしている。たとえば、たいていの家庭に「仏壇」という装置があり、一日に一回は手を合わせて故人や先祖と「対話」する習慣がある。また、正月に並ぶ一大イベントである「お盆」は、一年に一度、家に帰ってくる死者の霊を迎える儀式だ。仏教行事の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」を起源としているが、もともとの行事に祖霊供養の意味はなかった。中国に入って祖霊供養の意味が付加され、現代でも中国には、「中元節」として、先祖を敬い、お墓参りをする習慣が残っている。しかし中国においても、「死者の霊魂があの世から帰ってくる」というイメージは、日本ほど一般化していない。「霊魂」を強く意識する日本のお盆の形式は、他の仏教国の行事と比較しても、かなり特殊といえる。以上のように日本人は、特定の教義は信じないが、「霊魂」は本気で信じており、そういう存在と交流する機会が、日常生活の中に溢れている。

 

日本における「霊魂主義」は、縄文時代から続くアニミズムに由来している。「霊」も「魂」も、どちらも「たま」と読むことができ、その語源は「玉」と同じである。『万葉集』には、光り輝く美しい玉を賛美する歌が多く収められているが、そこには、玉が、魂の「依り代(よりしろ)」であるという信仰が表れている。

「たま」は、玉や、巨木、岩石に寄り付くとされ、人々はそういう物を「カミ」と呼び、畏怖や畏敬の念を抱いてきた。また、そういった依り代から「たま」が人間の身体に吹き込まれて人間は生かされている、という信念がある。そして、人間の身体が朽ちると、「たま」はそこから遊離して、自然の中に戻っていく。つまり、人の命といったものは、もともとは「カミ」から分化したものであって、死んだらまた、カミに戻っていく。すなわち、「人は死んだら神になる」。一神教文化における神は、人間界から超絶した立場にあるのに対し、日本における神は、人間の命と「つながっている」。

一神教の文化では、死者はいつまでも「人間」として扱われるのに対し、日本においては、死者は「神」となり、人間とは別の存在になる。だから、日本においては、死者に対し、生前の親しみと同時に、「畏怖の念」も抱くことになり、その感情は複雑なものとなる。冒頭に紹介したドキュメンタリー番組と、女性のブログからは、そうした死者に対する、親しみ(身近さ)と、畏怖の念、どちらも読み取ることができ、印象深かった。

 

ここまで、一神教文化と日本文化の死生観の違いを述べたが、私は両者の違いをことさら言いたい訳ではない。大事な事は、両者で共通していると考えている。

一神教文化では、神と個人が一対一で向き合うため、そこから「個人」「主体」といった概念が醸成されたとよく言われる。一方、日本には唯一神が不在だから、そういった概念が希薄だとも言われる。しかし、私が思うに、日本には、唯一神の代わりに「死者」がいる。先程言及した仏壇や、お墓参りの習慣に見られるように、日本には、死者と語り合う文化があり、日本人は、このような死者との交流を通じて、一神教文化と同じように、「個人」や「主体」を確立していると、私は考える。

これは私の経験からも言えることだが、仏壇や、お墓の前で手を合わせる時、故人の事を思い出しながら、自分の身辺に起こった事を「報告」している。「何歳になりました」とか「今年から会社で働いています」とか。こうした行為は、実は、自身のアイデンティティの形成に深く関わっている。時間の止まった「死者」が、現世に生きる自分の「変化」を見守り続けているという信念がここにはあり、こうした「他者の視線を内面化する」作業が、自己を客観的に把握する契機になっている。つまり、私達は、死者の視線を通じて、自己を意識し、その成長を感じている。

時間の止まった存在に対し、身辺の変化を語り、そのことで、時の流れや自己の有限性を意識し、やがて倫理的行動に目覚めていく。この一連の過程は、どこの文化・宗教でも見られるものであると、私は考える。語る対象が、唯一神であるか、身近な死者であるか、といった違いがあるに過ぎない。そして、人がそのような倫理的行動に目覚めていく姿は、美しい。冒頭に述べたように、私は、人間の「死者に囚われる」「死者に拘る」姿に引き込まれるのだが、それは、上述の事が関係しているからかもしれない。