無常

今年は日本航空一二三便墜落事故から三十年目である。事故のことを調べていると、生存者の証言記録を見つけた。以下、日本航空アシストパーサーの落合由美さんの証言を引用。「そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふうにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。怖いです。怖かったです。思いださせないでください、もう。思いだしたくない恐怖です。お客様はもう声もでなかった。私も、これはもう死ぬ、と思った。まっすぐ落ちていきました。振動はありません。窓なんか、とても見る余裕はありません。いつぶつかるかわからない。安全姿勢をとりつづけるしかけるしかない。汗をかいたかどうかも思いだせません。座席下の荷物が飛んだりしたかどうか、わかりません。体全体がかたく緊張して、きっと目をつむっていたんだと思います。」(吉岡忍『墜落の夏』、一九八九)私は、ここに記されている情景をありありと思い浮かべながら、極限状態の人の心理を噛みしめた。そして、私の心の中の、ある感情を確かめた。私は日常生活において、心の半分で常に自分の死を気にしている。人生はいつだって、不慮の事故による死と隣り合わせだということを意識している。上記の落合さんの証言や、平成十七年の福知山線脱線事故の生存者の証言が、私の心を動揺させる。怖いけれども、それでも気になって読んでしまう。東日本大震災の時は、地震発生から約一カ月間、現地の人々が撮影した津波襲来動画を恐怖に耐えながらずっと見ていた。

 

私は人生でこれまで、つらくて死にたいと思ったことが無い。むしろ逆で、死にたくない、という感情が強すぎて、いつか訪れる自分の死を考えると、ひどく憂鬱になってしまう。死ぬ時の痛みが嫌なのではない。そういった恐怖はたかが知れている。私の悩みは、もっと解決不可能で、どうしようもない。それはすなわち、死ぬと自分という存在が消え「無」になるということ。そして死後、自分のいない世界が永遠に続いていくということ。このことを深く考えると、不安が胸に押し寄せてきて、時に動悸や発汗の症状が現れる。入浴中や就寝前に起こりやすいのだが、ウワーッと叫びたくなる。誰かに頼りたくなる。初めて発症したのは小学生の頃だ。

五年くらい前に、私はこの症状を「タナトフォビア」と呼べるのではないかと気づいた。タナトフォビアとは、「死恐怖症」と訳される既存の言葉だが、正式な病名ではなく、明確な定義は無い。ただ、この単語を使ってネット上を検索すると、自分と同じ症状の人々を見つけられた。特にQ&A形式の情報共有サイトにおいて。質問者が訴える死に対する恐怖心、およびそれに付随して起こる症状は、まるで自分かと思うくらい全く共感できるものだった。しかし同時に驚いたのは、質問に対する回答が、どれも見事に的外れだったのだ。質問者の訴える苦痛を、回答者は理解できていないようだった。

気持ちの分り合える人同士で共感のコミュニケーションを取りたいと思い、四年前にツイッターで「死ぬのが怖い」というアカウントを作った。十代、二十代の若者が時々新規にフォローしてくれる。彼らと何回か言葉も交わした。「死を思うとパニックになって、もう耐えられない。周囲に相談しても誰も理解してくれない」という悲痛なコメントが寄せられた。私もそうだった。誰も、何も、頼るものがなかった。人が生きている以上、必ず直面する悩みなのに、それを受容する機構をこの社会は用意していない。このことがずっと不思議だった。私はかつて、この恐怖症は誰もが時々患うものだと思っていたが、そうではないらしい。分からない人には分からない。というよりも、分からない方が多数派なのだ。考えてみれば、ネット以外でこの恐怖について語る人を見たことがない。また、この症状は心身に相当危機的な状態をもたらすものなのに、心理学でまともに研究されていない。心理学は、「死にたい」と訴える人に対して同情的で、それらの人々へのカウンセリング技術を高度に発展させてきたにもかかわらず、「死にたくない」と願い苦しむ人に対しては、あまりに無理解で無関心なのだ。

 

そんな私が、ここ三年間ほど症状に悩まされずに生活している。はっきりとした理由は分からない。歳をとって神経が鈍感になったのだろうか。冒頭で述べたように、日常生活の中で常に死は意識している。しかし、死への「拒絶反応」は、確かに和らいでいる。関係していると思うのは、三年くらい前から、仏教と日本文化の本をよく読むようになったことだ。

ガウタマ・シッダールタの生涯について解説した本を読んだ時、彼の出家の動機にはタナトフォビアに近いものがあったのではないかと直感した。ガウタマはシャカ族の王子として生まれ、宮殿の中で何不自由ない暮らしを送っていた。十六歳で結婚し、子どもも授かっている。おそらく人生について前向きな気持ちを持っていただろう。それがある時、王城の東門から外に出ると老人と出会い、南門から出ると病人に出会い、西門から出ると死者に出会った。この出遊の故事が、ガウタマの出家に至るきっかけを示しているという。満たされた生活を送っていた彼にとって、その人生がいつまでも続かず、いつかは惨めに終わりを迎えるという事実は、大きなショックだったのだろう。タナトフォビアの人とのやり取りで分かったことだが、彼らの多くは生活自体に大きな問題を抱えていない。私もそうだが、自分の人生に対する満足度は高い。そんな豊かな人生だからこそ、それがあっけなく終わってしまうことが耐え難いのだ。この苦痛は、ガウタマが出遊の時に感じた苦痛と同じではないか。そう考えてからは、仏教が自分にとって身近なものになった。

色々と本を読み進めるうちに、仏教の日本文化への影響を深く知るようになり、特に「諸行無常」の概念が、日本文化の根底に流れているということを改めて理解した。そうだった。我が国には「無常」の伝統があるではないか。

源氏物語平家物語方丈記徒然草・・・。日本文学は昔から無常をテーマにしてきた。自分という存在が儚く消えること、それはどうしようもないということの憂いを、先人達は繰り返し表現してきたのだ。特筆すべきは、いろは歌である。四十七文字の仮名を一回ずつ使い、意味の通る七五調の歌にしたものであるが、その内容は、仏教経典『涅槃経』の中の「諸行無常、是生滅法、生滅々已、寂滅為楽」の意訳にもなっている。平安中期につくられたこの「無常歌」を、国民全員で千年近く唱え続けてきたということなのだから凄い。評論家の唐木順三いわく、「無常を語る場合、きわだって雄弁になり、それを書く場合、特に美文調になるという傾向がきわめて顕著であるということが、日本人のひとつの特色といってよいだろう。(中略)日本人は無常を、無常世界観、無常観として考える以前に、無常感としてまず共感し、その共感を、仏教の語彙をかりて表現するというそういう傾向が著しい。」(『無常』、一九六五)文学だけでない。絵画や彫刻、舞踊においても、日本人が表現してきたのはいつも無常だった。例を挙げるときりがない。

自分という存在がいつか消えるということを憂い、その気持ちを誰かと共感するというのは、いわば諦めと、慰め合いであり、何らかの解決策を導くものではない。しかし、「共感」、このことだけで私は救われる。多くの先人達が私と同じことを考え、悩んできたということがわかると、自分は一人ではないと安心できる。しかも先人達は、その悩みと真剣に向き合い、美の形に昇華させていった。その営為に私は大変慰められる。

近代、西洋の文化が流れてきても無常の系譜は途切れることはなかった。近代的個人主義を説いた夏目漱石も、晩年には「則天去私」という東洋風の概念に戻ってきた。森鴎外も「諦念」という言葉を残した。戦後、アメリカの文化が流れてきても、たとえば小松左京はSF小説の中に無常感を織り込んでみせ『果しなき流れの果に』という傑作を生みだした。手塚治虫もマンガという新しい形式において無常を表現した(『火の鳥』)。

 

ドイツの精神科医エリザベス・キューブラー・ロスはその著『死ぬ瞬間』にて、末期患者が死を受け入れるまでの心理プロセスを「否認・隔離」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」の五段階に分けた。これを参考に、死を自覚した人間がそれを受け入れるまでの段階を、人生という長い時間軸において定義するならば、先ず死に対する「混乱」があり、次に「苦悶」、そして「共感」「癒し」、最後に「諦め」に至る、と私は考える。私は今、先人達が残した知的営為に癒されている途中なのだ。人生は癒しの旅だと思って、何とかやっている。