二年前、テレビのバラエティ番組を見ていると、北海道、礼文島の三井観光ホテルの横に住むおばあさんの事が紹介されていた。おばあさんは、海で拾ってきた貝でストラップを作り、家の二階の窓から観光客を見かけると、「これを持っていきなさい」とストラップを投げ渡しているそうだ。

この話を知って、日本にもこんな人がいるのだと嬉しくなった。東南アジア等を旅行すると、現地の人の、私達への「働きかけ」の度合いに、カルチャーショックを受ける。乗り物に乗り合わせただけなのに、積極的に話しかけてくれたり、お菓子や果物をくれたり、何らかのコミュニケーションを取って、楽しもうとしている。その場で仲良くなって、行き先まで付いてきて案内してくれる事だってある。この人は、最初はどこに行こうとしていたのだろうと不思議に思う事がある。

日本とは大違いだ。日本では、どこに行くか、誰と会うか、予め決まっていて、移動中に出会う人々とは基本的にコミュニケーションを取らない事になっている。道草をくって、約束の時間に遅れたりでもしたら大変だし、そもそも他人に話しかけるということ自体、変な目で見られかねない。そして約束の時間に知り合いに会うと、後はその人だけ、あるいはその仲間達だけの世界となり、身内の話で盛り上がって、一日が終わる。

東南アジアの人だって、気の合う仲間同士で集まって、内輪話で盛り上がる事もあるだろう。しかしその一方で、見ず知らずの他人に働きかける「余裕」を持っている。私は、こうした余裕こそが、「生きる」ことの本当の意味を知っている証拠なのだと、思う時がある。そして、その「余裕」とは、つまり〈「社会」との距離感〉なのだと考える。

 

私達は「社会」というものを、人間にとっての唯一絶対の存在基盤のように考えていないか。朝起きたら身だしなみを整え、学校や会社で人と挨拶を交わし、何らかの情報処理活動、生産活動に従事し、活動の合間に人と会話をしたり、一緒に食事をとったりする。こうした生活において、多くの人々が関心をもつ話題とは、自分や他人が社会の中で、どのような集団に属しているのか、また、その集団内の人間関係はどのようなもので、誰と誰が対立的で、誰と誰が友好的か、といった事だ。これは当然の事のように思われるかもしれないが、しかし、これらの関心事は、私達の「生きる」という事の全体ではない。

昔の人は、こういう関心事から成る世界を「俗世」とよび、世界全体と切り分けて思考してきた。しかし現代においては、人々の興味はこういった社会内部の出来事へ、狭まるように収束化しており、ついに、それが世界全体であるかのような倒錯が、倒錯ではなくむしろ当然の事のようになってしまっている。

人間は、社会的存在である以前に、本来、自然の中で暮らしていた動物である。地球上に生命が誕生したのが四十億年前、人類が誕生したのが二十万年前。こうした時間感覚の中で、人類が文明を作り始めた時期はというと、せいぜい四千年くらい前であって、私たちは、ここ最近になって急に、「言語」や「自己意識」というものを用いて「ちょっと変わった暮らし方」をし始めたのだ。つまり、文明=社会的生活とは、人類の歴史の中では相当「特殊」であって、普遍的ではない。

だから、「社会」にあまりにコミットした生き方、意識過剰になっている生き方は、偏っている。いわば「中毒」なのだ。「社会中毒」に陥ると人は、自分の事と、自分と利害関係のある人の事しか考えられなくなる。「社会」にハマればハマるほど、所属集団の人間関係や、自分の地位・経済状態といった事ばかりにしか思考が働かなくなる。それでは結局、社会内の基準、規則、コードをなぞるだけの人生になってしまう。

 

ある時、「それは人間本来の生き方ではない」と、気づく瞬間がある。その時に人は、文明=社会原理から距離を取ろうとする。距離を取ることによって、「余裕」を作る。

「余裕」の時間の中で、何をするかというと、一つは自然と親しむ。自然の動きをよく観察し、その変化を生活に取り込むことで、社会に穴があいて、新鮮な空気が流れ込んでくる。

もう一つは、同じ人間同士で、心を震わせ合う。「言語」と「自己意識」を発達させてしまった人類は、それゆえに、他の動物とは共有し得ない悩みや欲、孤独といったものを必然的に持ってしまう。それを癒してくれるのは、同じ思考能力を持つ人間の、心のこもった言動、あるいは創作物なのだ。

人に驚きや感動を与える言葉や行動は、社会原理に基づかないゆえに、必然的に無意味で、無利益である。礼文島のおばあさんが、貝のストラップを作って無償で観光客に投げ渡す行動は、経済学の観点からは説明できない。しかし、こうした行動にこそパワーが宿るのであり、人の心を震わせる。

「社会中毒」に陥っていない多くの東南アジアの人々はこの事を知っている。自分の時間を削ってまで、見ず知らずの私とコミュニケーションを取り、楽しさを共有しようとするのは、そうすることで社会に穴があいて、「生きる」ということが、そもそも何だったかを思い出せる事を、知っているからだ。

小学生の時、同級生と河原で遊んでいたら、その河原に住んでいるおじさんが、こちらに歩いてきて、私達に向かって言った。「わしらが子供の頃は、この坂を上りきれる奴は一人もおらんかった。あんたらは上っとる。あんたらは立派やから、頑張りなさい!」今考えてみると、その坂はそれ程急ではないし、昔の子供の方が現代っ子より体力があるのだから、そんな訳ないだろう、と思うのだが、おそらくおじさんは、何らかの「前置き」を付けて、とにかく私達に、「頑張れ!」と言いたかったのだろう。このおじさんの言葉の投げかけは、礼文島のおばあさんの行動と、本質的には同じである。一期一会の相手への、心をこめた贈与。そこには、「同じ人間だから」という考え方がある。私達が社会生活の中で、身内や仲間だけを大切に扱おうとするのとは、全く別の原理である。

 

三年前、NHK―Eテレ「心の時代」『国境なき針と糸』を見た。静岡県島田市で、無医村診療や老人介護に尽力しながら、戦火にまみれた故国アフガニスタンの救援活動を続ける、レシャード・カレッド医師が紹介された。レシャード医師は、毎週木曜、病院に通えなくなったお年寄りのもとへ往診に向かう。ベッドに横たわるおばあさん。

レシャード医師「どうです、おかわりないですかね?」

おばあさん「 元気で暮らしております。」

レシャード医師「けっこうですね。それはそれはよかったです。いい顔色なされていますよ。」

おばあさん「 恥ずかしい。ありがとう。」

レシャード医師「ご飯も美味しく食べれましたか?」

おばあさん「美味しく食べております。」

レシャード医師「よかったですね。」

おばあさん「勿体なくて、涙がこぼれます。嬉しくって、ありがたい。」

レシャード医師「どう致しまして。少しと言わずに、たくさん頑張ってもらって、まだまだ長生きして貰わないと。お大事に。」

おばあさんに手を添えて話しかけるレシャード医師。その優しい言葉に、おばあさんは号泣してしまった。その時のおばあさんの顔が、本当に心の底から救われた、有難い、という表情で、見ていてとても感動した。レシャード医師は言う。「私は、日本語の「手当」という言葉が凄く好きなんです。「手当(てあて)」というのは、手を当てるだけで診るんですよね。手を当てることで、子どもは泣きやむし、手を当てることによって、病人は安らぐ。そして悲しい人は悲しい時に手を当ててもらうだけで慰められるわけです。だから「手当」というのは、技術は要らない。根本は「手当」なんですよ。手を当てること、通じ合うこと、信頼しあうこと、寄り添うこと、それが「手当」というだろうなと思います。」

悲しみや絶望の淵で、誰かが手を差し伸べてくれた時、自分の〈存在そのもの〉に声をかけてくれる人がいた時、そういう時にこそ、人の心は震え、涙が出てくる。

江戸時代の国学者本居宣長は次のような歌を残している。

 

事しあれば うれしかなしと時々に うごくこころぞ 人のまごころ

 

宣長は、物事を理屈であれこれと言う態度を「漢意(からごころ)」といって批判し、それよりも、善悪などの一切の価値判断に関わることなく、物事に触れて自然に動く心の純粋な機能を尊んでいる。

たしかに、本当に嬉しかった事、感動した事というのは、言葉であれこれ言えないものだ。自然の見せる大きさ、複雑さ、あるいは人同士の心の機微、そういったものは社会原理を超えているがゆえに、言語で表しきれない。下手に言葉にすると嘘くさくなる。そこをなんとか、言葉を尽くして表現しようとする試みが「文学」であり、言語以外の形式を取るのが「芸術」である。

あるいは、「儀式」というものもある。たとえば、正月や祭りの日、成人式や結婚式に人は「晴れ着」を着るが、衣装にこだわる事で、「おめでとう」の一言では言い尽くせない、祝いの気持ちを、精一杯伝えようとしている。

「文学」であれ「芸術」であれ「儀式」であれ、その時々の自分の気持ちの高まりを、「形」で表現していく事は、つまり、「人生を愛でる」事なのだと、私は考える。

 

人生とは?私の人生は、宇宙の時間規模からすると、ほんの一瞬の出来事だ。私とは、物質のぶつかり合いによって偶然できたタンパク質の塊であって、今、一時の生を享受しているが、数十年経てばバラバラに崩壊し、宇宙の塵に戻る。それは私だけでなく、人類全員がそうである。さらにあと百億年もすれば太陽は膨張の末、収縮に転じて白色矮星となるという。その影響で、いつかの時点で地球に生物は暮らせなくなる。やがて、無数の銀河が互いに衝突を繰り返し、宇宙は次々と様相を変え、ついに宇宙そのものが、一点に収束して「無」になるという。

つまり、この世でやる事は、最終的には無意味なのであって、私達は何のために生きているかよくわからない。私達は、ただ単に、物質の合成によって「発生してしまった」存在であって、よくわからないが、とにかくこの世でしばらくの間、存在しているしかない。

この運命に抗うことはできず、私達はいつか自分の生を「諦め」なければならない。それならばせめて、そんな儚い自分の人生を、自分自身で慰めてやってもよいではないか。だから私達は、様々な「形」で、自分の人生を精一杯愛でてやるのだ。そして、たまにできる「余裕の時間」でもって、他人の人生も愛でてやろう。そうするとどうなる、という事でもない。ただ、戯れに、そうするのである。

 

縄文人は、火焔土器を作り、火の持つエネルギーを表現しようとしたのだろうか。あの、複雑であって同時に自然であるような、絶妙な形状を作り出すには、相当の集中力と、持続した意志が必要であり、その「形」を見れば、製作者の「情熱」を感じ取ることができる。時間を込めて、心を込めて、作った物にはパワーが宿り、数千年の時を経てもなお、私達の心に揺さぶりをかけてくる。

縄文人は文字を持たなかったのに、これ程堂々と、自己の内に湧き上がる気持ちを表現している。彼らはそうやって、自らの生を精一杯愛でたのであり、その作品に触れた私も、彼らの生を、愛でてやりたい気持ちになる。

一方現代人は、文字を使えるがゆえにそれに頼り、何かを書いたらそれで表現したつもりになって、時間をかけて物を作ろうとしない。また、何かに書かれていることを金科玉条のように崇め、「イデオロギー」を連呼するだけの人がいる。そういう人達の主張を、私は一番信用できない。

 

私達は、せっかく今、「存在」できているのであるから、今のうちに、この世の様々な物と戯れ、魂を活発に動かすのがよい。何かに書かれた規則やコード、集団内の人間関係、そういうものに縛られて過ごすのはもったいない。私達はもともと、社会とは関係のない生命体であり、本質的に自由であるはずだ。

誰になんと言われようと構わない、他の人には分からない、そんな「私だけの時間」を、誰もが持てるはずなのだ。何か趣味を始めるべきだと言っているのではない。公園を散歩するだけでいい。犬や猫に話しかけるだけでもよい。誰にも邪魔されない、自由な時間、「幸せな時間」を作り、自分のペースで、リラックスした心持ちで、人生を愛でていけばよい。

平安時代

倭歌(やまとうた)は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に、思ふことを、見るも聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をもいれずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをうな)の仲をもやはらげ、猛き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。

(和歌は、人の心を種として、それが生長して様々な言葉になったものである。この世の中に生きている人は、関わり合いになる出来事や行動が多いので、それらについて心に思ったことを、見るものや聞くものに託して、言葉で表現しているのである。花の枝で鳴く鶯や、川に住む河鹿蛙の声を聞くと、いったいどんな生き物が歌を詠まないだろうか。いやすべての生き物が感動して歌を詠むのだ。力を入れないで、天と地を動かし、目に見えない恐ろしい神や霊を感動させ、男女の仲を親しくし、勇猛な武士の心を慰めるものは、やはり歌なのである。)

(中島輝賢編『古今和歌集』、二〇〇七)

 

賀茂真淵が「手弱女(たおやめ)ぶり」と批判した『古今和歌集』であるが、右の「仮名序」は、弱々しいどころか、実に雄大で、壮大で、威風堂々としている。

私は、平安時代を、みやび、あはれ、繊細、といったイメージだけに閉じ込めるのは、もったいないと思う。平安時代こそは、人間の精神が極限まで磨かれた時代であり、そこには、「優美さ」や「繊細さ」があり、同時に、「力強さ」や「勇猛さ」もある。この時代には、全ての価値が、美しく、揃っている。

 

平安時代の「力強さ」「勇猛さ」は、たとえば空海の生き方に表れている。

空海は少年の頃から漢学をよく学び、成績は優秀、当時の官吏養成の最高機関である「大学寮」に入学した。そこで血のにじむほど勉学に励んだ空海だが、「こうした学問は単に世に処するためのもので、人生の真の理想を探求するものではない」と考えるようになり、ついに中退してしまう。その後、二十四歳の時、戯曲形式の比較宗教論である『三教指帰』を執筆し、仏道修行に専心していく。修行の中で密教経典『大日経』に出合い、これこそが自分の求めていたものだと確信した空海は、密教を学ぶために中国留学を希望し、三十一歳の時に留学生に選ばれる。

船旅の末、辿りついた長安で、空海は恵果和尚の教えを受けることになる。恵果は空海の才能を見込んで全てを惜しみなく授け、そして、空海が学ぶべきものを学び終えるや否や、体調を悪くし、この世を去ってしまった。恵果は最期の時、空海に、早く日本に帰って密教を広め、人々を救済し、国家を安泰に導くように伝えた。しかし当時の定めでは、留学生は中国に二十年滞在することが義務となっており、わずか三年で帰ることは罪を犯すことに等しい。空海は思案の結果、「大忠大孝」の道を選び、師の遺言にしたがって帰国することを決めた。

案の定日本の朝廷ではこの事情は理解されなかった。空海は帰国後四年間、都に入ることを許されず、大宰府に留まるしかなかった。平城天皇が譲位し、嵯峨天皇が即位してようやく入京が許され、空海高雄山寺に入住し、弟子達に密教を指導して過ごした。

四十歳を過ぎた空海は、本格的に密教を広めるため、修行場として高野山を賜りたいとの趣旨の上奏文を朝廷に差し出した。間もなくこれが認められ、以後、空海高野山に住み、山中で伽藍の建立や執筆活動に力を注いだ。

四十八歳の時、空海の故郷である讃岐の郡司達は、ため池の堤防修築の別当に、空海を迎えたい旨の願書を朝廷に提出した。これが認められると、空海は直ちに故郷に向けて旅立ち、わずか三か月の滞在期間で改修工事を完了させてしまう。この「万濃池」は、現在でも灌漑用のため池として、日本最大規模を誇る。

五十五歳の時、空海は「綜芸種智院式並序」を著し、世界初の、庶民のための民間学校を設立する。その特色は、①誰もが自由に学びたいものを学べる、②幅広く専門以外のことを学び、視野の広い人物を養成する、③完全給費制の三つであり、現在の教育基本法ときわめて類似していることに驚かされる。この綜芸種智院の開設は、わが国の教育史上に重要な意味をもっている。

(以上、参考にしたのは、加藤精一『空海入門』、二〇一二)

加藤精一氏は、空海を「引きずられない人」と評する。空海は、いくつかの重要な節目において、かなり強い決断をくだしているが、なにか特定の教義に従っている訳ではない。宗教家に特有の「狭さ」はどこにも感じられず、常に柔軟な発想で、こだわりなく、悠々と真実の大道を歩み続けている。たとえば、大学に入学し、立身出世が約束されている身であるにも関わらず、そのような世間の価値観には引きずられず、あっさりと中退してしまう。また、中国から帰国する際も、国家権力に引きずられることなく、自分の志を貫いて三年での帰国を果たした。その生き方は、真っすぐで、まことに爽やかだ。

密教という、神秘的かつ難解な教えを学び、人に指導しながらも、万濃池の改修や綜芸種智院の開設等、行動はきわめて具体的で、純粋に人のためになることをやった。千年以上前の時代に、これほどダイナミックな生き方をした人がいる、ということに、私は感動してやまない。平安時代とは、これほどの人物が生まれ得る時代だったのだ。

 

平安時代は貴族が政権を担った時代である。平安貴族は、「儀礼」や「教養」に価値をおく生活を営んでおり、その政策も「文化」を重視するものだった。たとえば、弘仁五年(八一四年)、嵯峨天皇の命により初の勅撰漢詩集『凌雲集』が、延喜五年(九〇五年)に、醍醐天皇の命によって初の勅撰和歌集古今和歌集』が編纂される。『古今和歌集』は、全二十巻、総勢一一一一首あり、それが「春の歌」「秋の歌」あるいは「恋歌」「哀傷歌」という様に、季節や場面によって、整然と分けられている。これ程の事業を行うには、相当な時間と労力がかかったに違いない。また、これは国の事業か不明だが、平安後期に、当時のあらゆる物語を集めた『今昔物語集』が作られ、全三十一巻にもなる。これほど広範に、網羅的に、詩や物語を集め、後世に残そうとした平安人の営為に、「文化」というものに対する情熱を感じる。

 

文化事業が大規模であれば、個々の作品も、「大作」揃いだ。『源氏物語』は、全五十四帖から成る、世界最古の長編小説である。なぜ世界最古かというと、それまで、神話や叙事詩、戯曲、歴史書といった書物は世界各地にあったが、「散文で作成された虚構の物語」かつ「主題があって話の展開に必然性がある」ものは、なかった。そのような書物は、源氏物語以降、「近代小説」の登場まで待たなければならない。しかし、その近代小説においても、源氏物語並みの長大な構成を持つものは少ないし、言葉の美しさ、主題の深淵さにおいては、未だ超えられていないとも言える。川端康成は次のような言葉を残している。「「源氏物語」に集大成された王朝の美は、その後の日本の美の流れとなったのです。わたくしは若い時に、「源氏物語」は藤原氏を亡ぼし、平家を亡ぼし、北条氏を亡ぼし、足利氏を亡ぼし、徳川氏を亡ぼした、と言ったことがありました。ずいぶん乱暴なようですが、まったく根拠がないわけでもありません。「源氏物語」のように宮廷生活が爛熟すれば、もう衰亡は必至です。爛熟という言葉には、すでに衰えの兆があるという意味がふくまれていましょう。「源氏物語」は爛熟が極まって頽廃に傾こうとする、言わば一つの文化が上り切った頂から、まさに下ろうとする、いや、上りつめてまだ上ってゆくように見えながら、じつはもう下りかかっている、そういうあぶない時に生まれたのです。」(「日本文学の美」『毎日新聞』、一九六九)

 

絵画においても、この時代に、表現技法が「頂点まで上りつめた」のだと言える。映画監督の高畑勲氏は、平安絵巻について以下のように解説している。「連続式絵巻は、十二世紀後半の京都で、歴史的転換期を目撃しつつあった絵師(僧侶・宮廷人)たちが、内外の先行美術作品や、自作の記録的絵巻や、私的な戯画など、様々な経験の蓄積から表現法のヒントを得て、まったく新しい「時間的視覚芸術」の可能性に目覚め、おそらく後白河法皇のプロデュースのもとに、当時書物としてまとめられていた説話のうち、これならば面白いものになりうるという題材だけを選び、物語性のある「時間的視覚芸術」を創造しようという明確な意図をもって、意志的自覚的に生み出したのだ」(『十二世紀のアニメーション』、一九九九)源氏物語が世界最古の小説であるのと同じく、絵巻のような「時間的視覚芸術」は、それまで世界になかったものであり、ここにおいても、平安人は新しいものを「発明」してしまっている。

私は、昨年八月から毎週日曜、都内で開かれている日本画教室に通っている。『信貴山縁起絵巻』や『吉備大臣入唐絵巻』を模写しているのだが、そこで描かれている人物の表情や、自然の「写実性」に驚かされる。それも、西洋絵画のように遠近法や立体表現を使わず、あくまで「輪郭線」によって世界をリアルに表現している。それは、現代のマンガやアニメと非常に似ているが、運筆の息遣いや、着彩の微かなニュアンス等、マンガやアニメには見られない高度な工夫が施されており、私は、絵巻表現の先進性に、日々感動している。

 

「文化的創造性」が極まった平安時代は、武士の台頭によって終わりを迎える。利害関係の問題解決に、有形的手段(軍事力)を使うことが多くなり、為政者は武力の統制に頭を使わなくてはいけなくなった。相対的に文化への関心は薄れていく。

同じ頃に宋銭が大量に輸入され、わが国において本格的な貨幣経済が始まる。その後の歴史において、貨幣のパワーは衰えることなく、ますます強くなっていき、その延長線上に現代がある。「金銭至上主義」ともいえる現代において、人は常にマネーを気にして生きなければならず、二度と、あの頃のような創造性を、発揮することはできなくなってしまった。

熊野灘

一昨年の十一月、ふと小金井市江戸東京たてもの園に出かけた。ちょうど特別展「ジブリの立体建造物展」が開催中で、ジブリ作品のイメージボードや背景画を楽しんだ。展示の途中で、展覧会監修者の建築家、藤森照信氏のコメントが貼ってあった。「人間は毎日、無意識に、寝る前と起きたときの目に映るもので「変わっていない」ことを確認して、ときどき古いもの、まわりの変わらないものを見ることで「自分が自分である」という確認作業をしている、というのが僕の考えなんです。自分というものの時間的な連続性を、建物や風景で無意識に確認している。そしてアイデンティティ、つまり「自分が自分である」ということを確認できているから人間は生きていられるんです。だから僕らが宮崎さんの映画を観て懐かしいと感じるのは、そこに、自分たちのいる社会の連続性を感じてホッとするからなんだと思います。」(『ジブリの立体建造物展 図録』、二〇一四)

このコメントは私に、その頃読んでいた本(竹内整一『「かなしみ」の哲学』、二〇〇九)で紹介されていた、詩人の西脇順三郎の言葉を想起させた。「私は文化ということは単に学問の進歩でもなく文明の利器の発展でもないと思う。人間が本来の性質にある哀愁感にもどることが一つの大切な文化的精神と思う。自然の風情はひとつの哀愁感で、恋愛の哀愁と同じように人間に先天的にあるような気がする。自然の風情を愛することは東洋でも西洋でも美しい一つの道徳のようなものである。」(「自然の哀愁」『野原をゆく』、一九七二)

両氏の言葉を私なりに解釈すると次のようになる。人は、変わらない風景を見ることで、自分という存在の連続性を確認し、自己を強く意識する。自己を強く意識するから、自分を大切に思い、有限の時間の中で、より高い境地に至ろうと努力する。そうして人は、「何が美しい生き方か」という倫理的な問題に向かい合っていく。だから、そういう意味で、風景を見て哀愁に浸るという行為は、「美しい一つの道徳」なのだと言える。

 

私もこのような「哀愁の力」を感じた事がある。四年前の十月、故郷の熊野での事だ。熊野三山の一つである熊野那智大社、そこからさらに山を登ったところに、妙法山阿弥陀寺というお寺がある。熊野地方では、親族が亡くなった時、その遺髪を妙法山に納める風習がある。現代では火葬が一般的なので、遺髪の代わりに「のど仏」と言われる遺骨を納める事が多く、私の祖父の遺骨も、ここに納められている。帰省した時に、家族でお参りに出かけた。

妙法山に到着し、山門前の見晴らし台からの風景を見た。突き抜けるように青い空の下、雄大な熊野の海と山々が、目の前に広がった。その自然の大きさに、私は心の底から感動した。さらに奥の方を見ると、私の生家がある太地町平見の台地が小さく見えるではないか。その事を家族と嬉しく確認した。

この時に私は、壮大なスケールの自然に比べ、自分が生きてきた暮らしというのは、なんと小さく、ささやかなものであったかということを認識した。天から自分自身を見るような気持ちだった。あの、海にせり出た小さな台地の端に、私の生家があって、そこでは静かで、穏やかで平和な、日常が流れ、ひっそりとした人間の暮らしが営まれていた。私は、自分の幼少期や青春の時間が、今、目の前に広がる空・海・山の中で、一気に過ぎ去ってしまったような気がして、切なかった。日常生活で味わうことのない、不思議な時間感覚があり、感傷と同時に、なんだかとても清々しい、強い気持ちが湧き上がってくるのも感じた。

妙法山からの眺めは、私に驚きと感動を与えるものであったが、同時に「安心感」があった。その安心感が、私をノスタルジーへと誘った。私が安心したのは、山から急に海へとつながる、その独特の地形だ。滅多に見ることのない高さからの見晴らしであっても、この地形には馴染みがあり、「私は今、自分が育った土地にいる」という感覚を覚えるには、十分だった。

谷で刻まれた山地が、地盤の沈下または海面上昇によって沈水し、出入りの複雑な海岸線になっているところを、「リアス式海岸」という。一昨年の年末、家族で台湾を旅行したが、九份(きゅうふん)から見えたリアス式の海岸は、あの時の妙法山からの眺めを私達に想起させ、こんな異国の地であっても、「懐かしい」という感情を抱くことがあるのだということを、共感することができた。

 

民俗学者折口信夫が「釈迢空」名義で出した歌集『海やまのあひだ』には熊野の歌がいくつか収められている。近代文学研究者の持田叙子氏は、この歌集について次のように評している。「歌集全体に強く弱く響く寂寥感は、読む者を人間存在の深淵に対峙せしめて止まない。その意味で、主に羇旅歌に多用される「さびしさ」「かそけさ」「ひそけさ」は『海やまのあひだ』の中心を成す境位として認められる。」(『海やまのあひだ』論、一九八六)

ここで示されている「さびしさ」「かそけさ」「ひそけさ」あるいは「寂寥感」という言葉が、熊野の風景によく合っていると、私は思う。また、この歌集のタイトルからして、山を抜けるといきなり海に出る、熊野の地形の事を言っているように思えてならない。

青黒い黒潮の波が、複雑な形の岩々にぶつかり、荒波を立てる。ただ波音だけが、繰り返し打ち響く。その荒涼とした風情が、世の無常さ、虚しさ、人の悲しみといった感情を、掻き立てる。和歌山の海というと、今では白浜の海水浴場が有名だが、そのような、いわゆる「リゾート地」の海とは違う魅力が、熊野灘にはある。

 

出身地の話になると、「よくもまあ、そんな遠いところから」と驚かれる。東京から名古屋まで新幹線で一時間半、名古屋から紀伊勝浦まで特急南紀で四時間、おそらく、東京から最も遠い地の一つであろう。それにも関わらず、私は、ゴールデンウィークとお盆と正月、毎年欠かさず帰省している。なぜか。それは、自分の「心のリズム」のためである。どういうことかと言うと、私は熊野へ隠れに行っているのだ。

熊野のクマは、物陰の暗い場所を指す「隈(くま)」が原義と言われており、また、コモル(籠る)という語との関係も指摘されている。そういった幽暗な土地のイメージから、神霊や、死者の魂が集まる「隠国(こもりく)」の地であると考えられていた。やがて仏教の世界観と習合し、熊野の海の彼方に、観音菩薩のいます南方浄土(補陀落)があるという信仰が興り、幾人もの行者が、捨身行として小型の木造船に乗り込み、あの世へ旅立った。

神々の集う、死者の国――。平安末期、時の上皇や貴族は、京の騒擾から一時離れ、心を休めるため、この地に籠りに来た。私も同じく、一年に三回、日の当たる場所から日の当たらない場所へ。この土地の物を食べ、海山を見、空気を吸い、眠ることで、心のリズムを整えている。

 

私の生家の裏には、岬へと続く遊歩道があり、帰省した時にはこの道を、一人、静かに歩くのが日課となっている。片側が崖になっており、木々の隙間から太平洋が見える。むなしく打ち響く波。苔むす道。木漏れ日。まわりには誰もいない。ゆったりとした心持ちになって、子供の頃、この土地で、無心に遊んだことを思い出す。

友達数人と山を探検中、巨大な犬に出合い、一緒に駆け回ったこと。狸の巣を見つけ、そこに秘密基地を作ったこと。山奥に埋もれた江戸時代の墓地を発見したこと・・・。海水浴中、湾に流れ込んだ波にさらわれ、沖まで流されたこと。水中眼鏡で足元を覗くと、サメが泳いでいたこと・・・。

私の意識は、すっかりその時代にまで遡り、気が付くと、母校の歌を頭の中でリフレインさせていた。

 

熊野の海の波の音 遠く聞こゆる教室に 浜木綿の香を運びつつ 風はさやかに通うなり

鯨を追いて昔より 海に生きし町の子の 息高らかに校庭に あふれて声は響くなり

清き水湧く山陰に 浜辺の校舎移し来て 古き歴史を誇りつつ 日々新しく進むなり

死者との交流

三年前、NHKスペシャル『シリーズ東日本大震災 亡き人との“再会”』を見て、大変胸を打たれた。震災で家族を失った人達が、「故人と再会した」体験を語るのだが、その誰もが、大切な人が亡くなった事実に心が囚われているようで、悲しみが切実に伝わってきた。「再会」というのは、たとえば、亡くなった男の子がよく遊んでいたおもちゃが突然、音を鳴らしたとか、故人が夢の中に出てきて声をかけてくれたとか、いわば「主観的」な体験に違いないのだが、それでも各人が、そういった体験を通して、それぞれの納得の仕方で、心を落ち着かせつつある様子が印象的だった。

私は、人間の「死者に囚われる」「死者に拘る」姿に、なぜか引き込まれる。これもNHKスペシャルだったと思うが、昨年、三十年目を迎えた日航ジャンボ機事故の遺族が、「御巣鷹の尾根」に慰霊登山を行うドキュメンタリーを見た。遺族は毎年、山に分け入って大切な人が眠る墓標に向かう。辿りつくと手を合わせ、墓標の手入れをし、家族で写真を撮り、そして山を下って帰る。それが本当に純粋な宗教行為に見えて感動した。大切な人を想う気持ちが、行為として、目に見える形で結晶化しており、人間存在のかけがえなさを感じた。

 

ある時、ネットをしていると、生まれたばかりの赤ちゃんを亡くした女性のブログを見つけた。その女性は、この世に生まれて数時間しか居られなかったその命に対し、まるで長年人生を共にしたかのような、気持ちの入った言葉を投げかけていた。赤ちゃんの葬儀の様子も綴られていたが、本当に心のこもった、丁寧な葬儀の仕方だった。その後、第二子を出産した後も、天国にいる第一子に絶えず言葉をかけており、第二子の成長日記に、常に第一子の事が綴られる。それ程、彼女にとって第一子は、大きな存在になっていたのだ。その、存在の崇高さ、と言おうか、その赤ちゃんと女性の関係性が、不思議で、人間心理の深淵を覗くようだった。

 

このようなドキュメンタリーやブログを見て、一つ気づく事は、日本における「死者の身近さ」である。他の文化圏に比べ、日本においては、故人に対する言葉の投げかけや、なんらかの慰霊行為が多いように思う。宗教学者池上良正氏によると、「日本の社会では、たとえば「鎮魂」「供養」「追悼」「哀悼」「慰霊」「浄霊」など、生者が死者に直接的に働きかけたり、両者がある種の双方向的な関係性のなかで交流すると考えられている機会が広くみられ、今日でもそれをあらわす用語が豊富であることは、否定できない事実である。」「「三大世界宗教」と総称される仏教・キリスト教イスラームは、いずれも死者の個別的運命などは普遍主義的な神や法にゆだねて、遺族があれこれ思い煩うべきではない、という理念では一致していた。(中略)他方、仏教文化圏、とりわけ日本の民衆宗教史においては、身近な死者との直接的な個別交渉の道は温存されたばかりか、むしろ仏教的理念の介入によって積極的に育てられ、煽られ、強化される傾向さえみられたのである。」(『日本における「死者の身近さ」をめぐって』、二〇〇六)

日本人は無宗教、と言われることがあるが、それは特定の教義を信じていないからそう見えるのであって、実際は、世界には類を見ない程、信心深い暮らしぶりをしている。たとえば、たいていの家庭に「仏壇」という装置があり、一日に一回は手を合わせて故人や先祖と「対話」する習慣がある。また、正月に並ぶ一大イベントである「お盆」は、一年に一度、家に帰ってくる死者の霊を迎える儀式だ。仏教行事の「盂蘭盆会(うらぼんえ)」を起源としているが、もともとの行事に祖霊供養の意味はなかった。中国に入って祖霊供養の意味が付加され、現代でも中国には、「中元節」として、先祖を敬い、お墓参りをする習慣が残っている。しかし中国においても、「死者の霊魂があの世から帰ってくる」というイメージは、日本ほど一般化していない。「霊魂」を強く意識する日本のお盆の形式は、他の仏教国の行事と比較しても、かなり特殊といえる。以上のように日本人は、特定の教義は信じないが、「霊魂」は本気で信じており、そういう存在と交流する機会が、日常生活の中に溢れている。

 

日本における「霊魂主義」は、縄文時代から続くアニミズムに由来している。「霊」も「魂」も、どちらも「たま」と読むことができ、その語源は「玉」と同じである。『万葉集』には、光り輝く美しい玉を賛美する歌が多く収められているが、そこには、玉が、魂の「依り代(よりしろ)」であるという信仰が表れている。

「たま」は、玉や、巨木、岩石に寄り付くとされ、人々はそういう物を「カミ」と呼び、畏怖や畏敬の念を抱いてきた。また、そういった依り代から「たま」が人間の身体に吹き込まれて人間は生かされている、という信念がある。そして、人間の身体が朽ちると、「たま」はそこから遊離して、自然の中に戻っていく。つまり、人の命といったものは、もともとは「カミ」から分化したものであって、死んだらまた、カミに戻っていく。すなわち、「人は死んだら神になる」。一神教文化における神は、人間界から超絶した立場にあるのに対し、日本における神は、人間の命と「つながっている」。

一神教の文化では、死者はいつまでも「人間」として扱われるのに対し、日本においては、死者は「神」となり、人間とは別の存在になる。だから、日本においては、死者に対し、生前の親しみと同時に、「畏怖の念」も抱くことになり、その感情は複雑なものとなる。冒頭に紹介したドキュメンタリー番組と、女性のブログからは、そうした死者に対する、親しみ(身近さ)と、畏怖の念、どちらも読み取ることができ、印象深かった。

 

ここまで、一神教文化と日本文化の死生観の違いを述べたが、私は両者の違いをことさら言いたい訳ではない。大事な事は、両者で共通していると考えている。

一神教文化では、神と個人が一対一で向き合うため、そこから「個人」「主体」といった概念が醸成されたとよく言われる。一方、日本には唯一神が不在だから、そういった概念が希薄だとも言われる。しかし、私が思うに、日本には、唯一神の代わりに「死者」がいる。先程言及した仏壇や、お墓参りの習慣に見られるように、日本には、死者と語り合う文化があり、日本人は、このような死者との交流を通じて、一神教文化と同じように、「個人」や「主体」を確立していると、私は考える。

これは私の経験からも言えることだが、仏壇や、お墓の前で手を合わせる時、故人の事を思い出しながら、自分の身辺に起こった事を「報告」している。「何歳になりました」とか「今年から会社で働いています」とか。こうした行為は、実は、自身のアイデンティティの形成に深く関わっている。時間の止まった「死者」が、現世に生きる自分の「変化」を見守り続けているという信念がここにはあり、こうした「他者の視線を内面化する」作業が、自己を客観的に把握する契機になっている。つまり、私達は、死者の視線を通じて、自己を意識し、その成長を感じている。

時間の止まった存在に対し、身辺の変化を語り、そのことで、時の流れや自己の有限性を意識し、やがて倫理的行動に目覚めていく。この一連の過程は、どこの文化・宗教でも見られるものであると、私は考える。語る対象が、唯一神であるか、身近な死者であるか、といった違いがあるに過ぎない。そして、人がそのような倫理的行動に目覚めていく姿は、美しい。冒頭に述べたように、私は、人間の「死者に囚われる」「死者に拘る」姿に引き込まれるのだが、それは、上述の事が関係しているからかもしれない。

エドワード・モースが日本滞在中に持っていた写真があるのだが、初めてそれを見た時、なぜか、自分の少年期を見ているような「懐かしさ」を感じた。着ているものはもちろん違うのだが、そこに映っている人々の雰囲気が、私の遠い記憶に呼びかける。何かが私とつながっている。

モースは、次のように記録している。「世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。」(石川欣一訳『日本その日その日』、一九七〇:原著Japan Day by Day 1917)明治期に多くの外国人が日本を訪れたが、彼らの手記を見ると、文明開化「以前」の日本は、物質的には決して裕福ではなかったが、精神的な面においては、現代の私達から見ても憧れるような幸せを実現していたらしい。モースは次のような事も言っている。「衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正さ、他人の感情についての思いやり・・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。」(同上)

 

最近、日本史を千二百年(十二世紀)単位で区切る手法を思いついた。日本の歴史の始まりを、初代天皇である神武天皇が即位した日とするなら、その元年から十二世紀まで(西暦BC七世紀~AC六世紀)が第一ターム、十三世紀~二十四世紀(西暦六世紀~十八世紀)が第二ターム、二十五世紀(西暦十八世紀~)からが第三タームとなる。第一タームというのは、つまり、大和民族が興り、列島に存在した複数のクニを統一し、「日本国」としてまとめる迄の過程だ。この頃、世界では枢軸時代の思想が誕生していたが、日本には伝わっていない。日本にそれが伝来したのは、第二タームの始まりの時期に一致する。第二タームは、枢軸時代の思想の、日本における「土着化」の過程だ。この土着化の事を「和様化」という。聖徳太子の「和を以て貴しとなす」という言葉から始まるこのタームは、まさに「和風」の時代。現代の私達が持つ「和風」のイメージは、ほとんどこの千二百年間に生まれた。仏教、儒教道教は大陸から主に百済を通じて伝わり、第二ターム前期の六百年(飛鳥~平安)に、知識人によって熱心に受容され、後期六百年(鎌倉~江戸)に庶民に浸透した。

ここで重要な書物に、『実語教』がある。平安末期に、何者かの知識人によって書かれたこの教訓書は、仏教の教えを基に、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさを尊重すること、勉学に励むこと、親孝行し、年配者を労わること、他人の気持ちを思い遣ること等を説いている。驚くべきことに、実語教は約千年間、庶民の間で読み継がれた。日本人の価値観の基礎を作ったといって過言ではない。これ程重要な書物なのに、現在、この名を聞くことがあるだろうか?教育現場で登場しないどころか、関連する本も、ほとんど出版されていない。不思議でならない。もどかしさを感じた私は、今年、全文を現代語訳し、ブログに掲載した。(http://mondou.hateblo.jp/entry/2015/05/08/021102)さらに解説動画を作成し、Youtubeにアップロードした。(https://www.youtube.com/watch?v=9A8tIEM7w-A

第三タームに入ってすぐ、和風時代は終わりを迎える。仏教、儒教道教の教えに代わって、西洋由来の近代思想が持ち込まれた。生活様式も西洋化していく。教育においては、寺子屋が廃止され、学校が創られた。この時の「教育改革」は、日本人の価値観を大きく変えるものだった。それまで寺子屋では、「読み・書き・そろばん」を基礎に、それぞれの子どもの実生活に応じた「個別教育」を行っていた。農民の子には『百姓往来』、商人の子には『商売往来』が教科書として使われたように。それが、「学制」の施行により、教育は「全国一律」のものとなった。また寺子屋では、知識の習得だけではなく、精神的な面を育成する「道徳教育」が行われていたが、学校では、専ら知識習得が優先され、徳育はないがしろにされていった。先程説明した『実語教』は、寺子屋の教科書として定番だったが、寺子屋の廃止により、ほとんど読まれなくなった。かろうじて「教育勅語」が作られ、徳育の精神を繋いできたが、これも昭和二十三年に廃止され、ついに日本で「道徳教育」は、されなくなった。(私は小・中学生の時、「道徳」の授業で、道徳教育を受けた記憶がない)

江戸時代まで勉学は、「修身」と結びついていた。つまり、知識の習得と同時に、自己の精神を高め、気高く生きる作法を身に付ける事が勉学だった。それが明治以降、一律の教育体制の中で、勉学は、試験に合格して「立身出世」するための手段と化していった。この傾向は現代において、ますます加速している。子どもも親も、どの学校に入るか、どの会社に入るかということに神経を使い、「修身」などという言葉は日常生活で出てこない。私達は、江戸時代までの人々とは全く違った価値観の中にいる。

 

現代人はまた、「徳」という言葉も使わなくなった。古典を読むと、「徳を積む」「徳を修める」という表現がよく出てくるのに、今ではあまり使われない。言葉を使わないということは、その概念が頭の中に無いことに等しく、関心が無いという事だ。

意味の近い「モラル」という言葉は、たまに使われる。ただ、誤用が多いように思う。例えば、「タバコのポイ捨てをする人が昔は多かったが、最近は日本人のモラルが向上して、そういう人は少なくなった」という言い方を見かけるが、それはモラルではなくて単に「マナー」だ。モラルとは、その語源のラテン語に「習俗・慣習」の意味があるように、本来は、時間の流れを含んだ概念なのだ。それが、単に「マナー」の意味に誤用され、また、その「マナー」という言葉も、やかましく言われる。現代人は、「徳」や「モラル」を忘れ、「マナー」のことで頭がいっぱいになっている。

「マナー」とは、人間同士のコミュニケーションにおいて、相手に不快を与えない最低限の行動様式のことであって、少し気をつければ誰でもできる。対して、「モラル」は、過去から蓄積された共同体の価値観を指すのであって、一朝一夕には身に付かない。さらに、「徳」は、自己の生の有限性を悟り、「何が美しい生き方か」を問い詰めた先に持ち得る価値観や行いを指すのであって、より能動的で高度だ。

私は、形式的で単純な「マナー」に、あまり深入りする必要はないと思う。私達は、「マナー」の事などさっさと済ませて、「モラル」について良く知り、これを守り、さらに深遠な「徳」を高めることに時間を使おう。江戸時代までの人々は、それをやっていた。

モースの持っていた写真が私の胸を打つのは、そこに映っている人々の表情から滲み出る「モラル」や「徳」が、忘れかけていた何かを想起させるからかもしれない。

 

現代は、第三タームに入ってまだ初期だ。始まりから三世紀が経とうとしている頃で、あと千年近く残っている。第三タームをどういう時代にするか、方向性を決めるのは私達だ。

この時代は、「民主主義」「人権」といった概念を西洋から取り入れて始まり、現在も、社会の運営体制は、基本的にこれらの概念が軸になっている。私達はこの社会体制に慣れきってしまっており、しばらくはこのままの状態が続くだろう。ただ、体制に慣れているとはいえ、私達はまだ、これらの概念を「自分のもの」にできていない。

例えば、選挙の時期になると、候補者の名前を連呼するだけの車が町に溢れる。候補者のポリシーは一切語らず、名前を脳に刷り込ませて、投票用紙に書かせようとしている。このような、人間の無意識に訴える「洗脳的手法」が、政府容認のもと平然と行われている。また、マスコミは「選挙に行きましょう」と急き立てるばかりで、肝心の、候補者を選ぶための判断材料を伝えようとしない。結局、知識を持たないまま投票会場に来てしまった人は、脳に刷り込まれた名前をそのまま書いてしまう。これが本当に「民主主義」なのだろうか?

また「人権」について、個人の考えを主張する権利が守られているからといって、それを悪用する人がいる。政治活動といって、壊れたテープレコーダーのように同じことを繰り返し唱え、他人の意見を聞こうとしない。民主主義にとって重要な、熟議や熟考を無視している。「人権」を盾にしながら、やっていることはロボットのようであり、「人」を捨てている。

このように、「民主主義」や「人権」は、形骸化している部分がある。憲法に書いてあるから、法律で認められているからといって、本来の使い方ではない事に濫用されている。「書いてあること」が優先され、ルールで全てが決まっていくような、そんな単純な社会が本当に正解なのだろうか?

例えば、何かを主張する場合、昔の人の考え方に基づくなら、「他人様(ひとさま)」の気持ちに配慮して主張しなければならない。人は一人で生きているのではなく、周囲の人々にお世話になりながら生きている。そのような、自己と世間の有機的な関係をよく認識し、これを言ったら相手がどう思うか、それでも言った方がいいのか、という様に熟慮した上で何かを言わなければならない。このような考え方は、生きている中で身に付く「常識」であり、何かに書かれていない。しかし、書かれていないからといって、無視してよい訳ではない。

私達は、書かれていることだけを信じるような「法律至上主義」の社会を抜け出し、民主主義と人権に、「徳」と「モラル」を結び付けていこう。

 

仏教は、日本において独特の発展を遂げ、本来のそれが持つ合理性や簡素さが失われたともいえるが、良い捉え方をすれば、複雑になり、深みを増したとも言える。これと同じように、民主主義、人権主義も、いつまでも「本家」の教えに固執することはない。私達の心の奥に眠っている「徳」や「モラル」を蘇らせ、「和風」の民主主義を作り上げていこう。

枢軸時代

私は大学生の時、まともに飯を食べず痩せこけていた。飯代をけちって、毎日本を買っていた。その本も、新品は滅多に買わず、高田馬場駅から大学までの通り沿いにある古本屋でよく買っていた。手元にある『プラトン』(田中美知太郎、一九七八)は定価一七〇〇円のところ、なんと百円で手に入れた。「ソクラテスの弁明」「クリトン」「パイドン」等八篇が収録され、解説、年譜も付いている。

ギリシャ哲学の研究の成果を、貧乏学生が百円で買えるのは、この思想が日本の中で広く受け入れられ、浸透した結果ではないかと、ふと考えた。国内にギリシャ哲学の研究者が複数人いて、その訳本や解説書を望む読者が一定数あるからこそ、それなりの出版数が実現する。流通量がそれなりにあるから、中には古本屋に売る人も出てくる。私は、この流通環境の恩恵にあずかって、プラトンの訳本を安価で入手できた訳だ。

学生時代、ギリシャ哲学の解説書を何冊か読んだが、それらの本からは、なにか著者の持つ熱量のようなものが感じられた。古代ギリシャへの憧憬だったり、それを研究することへの自尊心だったりが伝わってくるようだった。研究者同士が連綿と、熱い議論を交わしてきたのだろうと想像させる。

西洋の哲学が日本に本格的に入ってきたのは明治維新以降だが、近代哲学とその源流であるギリシャ哲学が、日本人になんとなく「はまった」のは、全く異質の教義として受容されたというよりは、何らかの親和性があったのではないかと思えてきた。全く異質であれば、理解不能として無視されたはずだ。実際は、多数の研究者によって熱心に翻訳、解釈が重ねられ、そして、貧乏学生が百円で書物に触れられる程にまで、人口に膾炙した。

 

最近、田中英道氏の著書の一節に、はっとさせられた。「ギリシャ半島は、必ずしもヨーロッパではありません。少なくともユダヤキリスト教文化圏ではありません。われわれは西洋の発祥の地としてギリシャを考えがちですが、東洋の一部といってもいいのです。(中略)たとえばギリシャ語で、自然は「フュシス」といいます。「フュシス」という言葉は「生み出す」「形成する」という動詞の「ピュオー」という言葉を基にしています。「誕生」「起源」です。生まれつきの性質という意味もあります。これは自然ということと、「自ら然り」、あるいは「自らが自動的に動く」という観念と同じで、自然というものを見たときに、ギリシャ人が感じたことを「フュシス」といっているわけです。」(『日本の宗教 本当は何がすごいのか』、二〇一四)この後に田中氏は、現在のヨーロッパ文化の主流であるキリスト教的価値観は、自然に対する態度の点で、ギリシャ哲学と異質のものであり、それよりも日本の神道の自然観の方が、共通性があることを主張している。

西洋文化の起源とされているギリシャ哲学を、むしろ東洋的とする見方は斬新だ。しかし私は、その共通性を日本の神道だけに限らず、もう少し広く他の思想と結びつけて説明しても良いような気がした。

たとえば老子老子は、万物の生まれ出てくる母体を「道」と呼んだが、「道」とはいわば「自然」のことだ。老子は「無為自然」と言って、人の手を加えず、自然の道に素直にしたがって生きることを理想とした。この考え方は、「フュシス」の概念と似ている。

老子はまた、次のようなことも言っている。「知りて知らずとするは上(じょう)なり。知らずして知るとするは病(へい)なり」(七一章)。有名な、ソクラテスの「無知の知」と同じことを言っている。孔子の『論語』にも、次の言葉がある。「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。これ知るなり」。さらに、原始仏典『法句経(ダンマパダ)』によると、ガウタマ(釈迦)も次のように言っている。「もしも愚者自らを愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、愚者だと言われる」(中村元訳『真理のことば 感興のことば』、一九七八)。

明治・大正の学者達は、仏教や漢学の知識も豊富であったから、彼らがギリシャ哲学と出合った時、どこかしら「聞いたことのある話」として受け入れた可能性がある。仏教や儒家、道家の説いた真理を、別の形で表したものとして、素直に理解できた可能性がある。

もう少し例を挙げよう。ソクラテス以前の哲学者にヘラクレイトスという男がいる。彼は「万物は流転する」と唱え、「同じ川には二度入れない」という言葉を残した。私達にとって、まず連想されるのは鴨長明の『方丈記』だ(「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」)。つまり、仏教的無常観に似たことを言っている。さらに彼は、その万物の変化は、無秩序ではなく、背後に「対立と調和」の法則があると言う。「みずからと対立するものは、みずからと調和している。逆方向に引っ張り合う力の調和というものがあるのだ。たとえば弓や竪琴の場合がそれである」(断片五一)。これも、仏教でいうところの「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」、つまり「縁起」に近い考え方といえる。また、この「対立と調和」の法則とは、すなわち自然の法則(ロゴス)のことを指しており、彼は、自然に従って不自然なことをするなとも言っている。ここで彼の思想は、老子の「無為自然」にも接近する。

時代は進み、ディオゲネスという男が現れる。ディオゲネスは、身体と精神の鍛錬によって、本当の幸福が得られると考え、苦行を重んじた。粗末な上着のみを着て、酒樽の中で暮らし、周囲からは「まるで犬だ」と言われた。彼は、動物がそうであるように、必要最低限の満足だけで生活し、それと対立する人為的なもの、すなわち知識や「ノモス」(習慣・法律)を、全て退けた。彼の実践は、「煩悩」と対峙したガウタマの生涯を彷彿とさせるし、また、「無知無欲」を説いた老子の思想とも共鳴している。

ディオゲネスの考えは、ヘレニズム期のストア派に受け継がれる。ストア派は、「自然」と一致した「理性」に従うことによって「情動」から解放されることを目指した。「情動」から自由になった平静な心の状態を「アパテイア」という。同時代のエピクロスが唱えた「アタラクシア」とほぼ同義だ。これは、仏教でいうところの「涅槃」(煩悩の火を吹き消した状態)に非常に似ている。また老子道徳経にも、「道」を修めた哲人の、静かな心の状態を表現した箇所がある。「虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。万物は並び作(お)こるも、吾れは以て復(かえ)るを観る。夫れ物の芸芸(うんうん)たる、各々其の根(こん)に復帰す。根に帰るを静と曰い、是れを命(めい)に復ると謂う。」(一六章)

 

哲学者カール・ヤスパースは、一九四九年に刊行した『歴史の起源と目標』の中で、「枢軸時代」という概念を提唱した。枢軸時代とは、紀元前五〇〇年前後、中国では諸子百家、インドではウパニシャッドや仏教、イランではゾロアスターパレスチナではイザヤ、エレミヤ等の預言者、ギリシャでは詩人や哲学者が、互いに影響を与えることなく、異なる場所で同時に、思想を展開した時代を指す。この事実は、考えてみると不思議なことだが、ある程度、合理的な説明が可能であるように思われる。

ここまで見てきた、道家、仏教、ギリシャ哲学の思想で共通している考え方は、「知識・文明への懐疑」「欲の制御」「自然に従う」といったことだ。なぜ彼らは、それまで発展させてきた文明を否定し、自然に戻ろうとしたのだろう。

おそらく、文明の発展に伴い、人々の意識に変化が生じたことがあるように思われる。実は、中国、インド、ギリシャで、本格的な文明社会が始まった時期は、大体一致している。中国最古の王朝とされる夏、インドのハラッパー、ギリシャのエーゲ文明は、どれも紀元前二〇世紀前後に起こった。そこから千年以上、都市生活を営む中で、人間の思考も変わっていったのではないか。ひとつは、文字の使用による、科学的思考能力の発達が挙げられる。人類は文字の獲得により、情報を空間的に固定できるようになった。ウォルター・J・オングの研究によると、人類の文化が聴覚中心から視覚中心へと移る中で、人々は「状況依存的」な思考から抜け出し、「分析的」「抽象的」に物事を考えられるようになった(Orality and Literacy, 1982)。ギリシャ哲学は、自然科学から始まったが、それは、ギリシャ人が、状況依存的な「神話」の思考とは別に、世界の成り立ちを「分析的」に考え始めた事を意味する。物事を状況から切り離し、客観的に観察するようになったのだ。その物事というのは、自然界の事だけではなく、「自分自身」も含まれてくる。「自己」を対象化し、その「生き様」を客観的に考察する動きが出てきてもおかしくない。

つまり、人類は文明を築いたが故に、科学的思考能力を発達させ、自分の人生についても合理的に考えるようになった。そして、神話、占い、宗教、スピリチュアルといったものから距離を置く考え方が出てきた。例えば、ガウタマの思想は、基本は原因と結果の因果則に基づいており、非常に科学的な思想であって、現代の仏教が持つ神秘的なイメージとは程遠いものだ。また、中国の諸子百家が議論したのは、現実的、政治的な事のみで、死後の世界については語らなかった。最も形而上学的とされる老子荘子でさえ、魂とか天国といったことには言及していない。

宗教やスピリチュアルといったものが、人がこの世で遭う不条理や苦しみから一旦、目を逸らさせ、癒しを与えるものだとするならば、枢軸時代の思想は、それとは違う意義を持っている。ヤスパースによる枢軸時代の定義はこうだ。「この時代に始まった新しい出来事と言えば、(中略)人間が全体としての存在と、人間自身ならびに人間の限界を意識したということである。人間は世界の恐ろしさと自己の無力さを経験する。人間は根本的な問いを発する。彼は深淵を前にして解脱と救済への念願に駆られる。自己の限界を自覚的に把握すると同時に、人間は自己の最高目標を定める。人間は自己の存在の深い根底と瞭々たる超存において無制約性を経験する。」

枢軸時代の思想は、「自分はいつか消滅する」という不条理から目を逸らさず、それに真っ向から立ち向かっている。人生の有限性を自覚し、限られた時間の中で、どうすれば美しく生きたと納得できるかを模索している。そうした立場からすると、都市の中で目先の欲にとらわれ、それが満たされなくて苦しみ続けるような生き様は、耐え難いのだ。

先に「ギリシャは東洋」という田中氏の言葉を引いたが、ここまで見て分かるように、本当は西洋も東洋もない。紀元前五〇〇年頃に同時多発的に発生した思想群は、都市を築いた人類にとっての、必然の結果なのだ。

テレビを見ていると私と同じ名前の中国人が出てきて驚いた。気になってフェイスブックで自分の名前を検索してみると、日本人よりも中国、台湾の人が多く出てくる。日本では同名の人に会ったことはないが、現地では結構メジャーなのだろうか。

私の名は、家族が何日か議論した末、最終的に祖父が決めたそうだ。生まれたばかりの私に向けて祖父が込めた想いは、「正」「倫」という漢字二文字で表された。私と同じ名を持つ中国、台湾の人々の親族も、祖父と同じ想いでその名を子どもに贈ったのだろうか。東アジア文化圏――日本、中国、台湾で共通する名前。その意味を深く知りたいと思った。

 

「正倫」は「まさみち」と読む。「倫」を「のり」と読む人もいるが、私は「みち」だ。まずはこの「倫」の字について掘り下げてみる。

「倫」の字は、複数短冊がまるく巻かれて整理されている形を表す「侖」に人偏を付けたもので、原義としては「人間関係がきちんと整理されている様子」を意味する。つまり、「倫」の字は、人と人の間の「状態」を示す語であり、私の名の読みである「みち=道」のニュアンスは、もともとの意味に含まれていない。

一方、中日辞書で「倫」を引くと第一義に「人の道、五倫」とある。五倫とは孟子が提唱した五つの道徳上の「規範」(父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信)のことで、孟子は、これを守ることによって社会の平穏が保たれると言った。

ここから考えられることは、「倫」の字はもともと「秩序ある人間関係」を意味するものであったが、いつの頃からか、それを維持するために順守すべき「規範」の意味が付随した。それと同時に、人が生きる上で踏み行うべき「筋道」としてのニュアンスが含まれるようになったのではないか。日本にこの漢字が持ち込まれた頃には既にそのニュアンスが定着しており、「みち」の読みが与えられたのだろう。

秩序ある人間関係、それを維持するために行うべき規範・筋道を意味する「倫」は、儒教色の強い漢字といえる。「正倫」の名が中国、台湾でポピュラーな理由は、それと関係しているのだろう。

 

ここまで「倫」の字について説明したが、その読みである「みち=道」について述べたい。中国の思想史において、「道」は常に主要概念であったが、それは儒教の説く「人として守るべき規範・筋道」の意味だけに限らない。中国思想史における「道」の意味はもっと豊かで複雑だ。それは、孔子の少し後に登場した老子が「道」の意味に大きな揺さぶりをかけたことに始まる。

老子の「道」は、それまでとはまったく違った新しい意味を帯びて登場した。それまでの儒家の道は、道義的な実践の拠り所として、はっきりと指し示された道であった。しかし、老子の「道」は、見えも聞こえもせず、恍惚としてとらえどころがなく、したがって名づけようもないものである。だから「道」というのも仮のよび名にすぎない。「無」とか「無名」とかよばれるのもそのためである。しかし、これこそが、この宇宙の全体をつらぬく唯一絶対の根源者として、大きなはたらきをとげている「一」であり、「大」である。そして、天地万物を生み出す始源としてまた「母」ともよばれている。老子にとって、これこそが真実の世界であった。世俗の現象世界にとらわれてはいけないというとき、老子はこの空々漠々たる無限定無制約の「道」の世界に入れといっているのである。」(金谷治『老子』、一九八八)老子は、儒家が重視した人間社会から一歩引いて、その外側から世界を眺めている。世界全体からすれば人間社会などちっぽけなものだ。この世に生まれた以上、従うべきは人間社会の原理ではなく、それを超えた「万物の原理」=「道」だと老子は主張した。道徳経上篇に「大道廃れて仁義有り」という言葉があるが、これは、本当の「道」の原理を人々が忘れた結果、世の中が乱れた状態になり、だからこそ仁とか義とかが、やかましく言われるようになったという意味だ。老子の思想は、徹底した儒家批判であり人間社会批判なのだ。

老子の言いたいことは「自然に帰れ」ということだ。人々が「大道」を忘れたのは、都市、文明を発展させ、制度の中に閉じこもり、その中での利害関係に夢中になっているからだ。文明の中で人々はさかしらな知識を身に付け、様々な欲望を増幅させた結果、逆に不幸な状態に陥っている。だから我々は知識や欲望を捨て自然に帰り、本来の状態に戻らねばならない。十八世紀にルソーが同じようなことを言ったが、老子は紀元前に既に言っている。

前章で述べたように、動物が欲にとらわれた存在だとする見方は間違っている。「欲にとらわれた動物」と「理性を持つ人間」の対比で物事を説明しようとする人がいるが、前提がおかしい。動物は欲を持たない。動物は体内のバロメーターと外部刺激の条件によって適度に行動しているだけだ。人間こそが欲の生き物だ。人間は都市の中で「名」を持ち、「自己」を特別視してその利害にこだわるあまりに、過剰な「欲」にとらわれてしまっている。

 

下篇に小国寡民章とよばれる章があり、そこで老子は、小さな共同体の中で、人々が文字を持たず、自分の食べているもの、着ているものに満足しているような、理想の農村生活を謳いあげている。

しかし老子は、現実に文明を破壊し、全てを農村の生活に戻そうと本気で考えていたのだろうか?これには疑問の余地がある。なぜなら、他の章でそのような主張は明言されていないし、むしろ「大国を治むるは・・・」と、国家の統治論を述べたりまでしている。そもそも伝記によると、老子周王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたという。知識を捨てて自然に帰れと言っている人が、実際は知識労働ど真ん中に従事していたのだ。

以上のことから、老子の主張する「自然に帰れ」の思想は、あくまで「理想論」だと私は考える。実際のところ人類はもう自然には戻れない。社会の中で生きていくしかない。しかし、それならばせめて「夢中になりすぎるなよ」と、老子は言いたいのだと私は考える。老子が生きたのは乱世の春秋時代だが、人々が自己の利益に夢中になり、それを求めて武力を振りかざす様は、まさに文明の自家中毒だ。このような結果にならぬよう、自然にもとづいた生活を「理想」として常に思い出し、静かな心でゆったりと社会生活を営んでいこうという提案なのだと私は考える。

 

私は「正倫」という「名」を社会の中で使い、周囲の人々と協力して生きていく。秩序ある人間関係を表す「倫」の字が、私の人生におけるコインの表側だ。それならば、その裏側に「道」の字がある。私は人間社会だけを生きていない。ちっぽけで単純な人間社会の外側に、広大で複雑な自然がある。人間社会を生きる以前に、この不可思議な宇宙に私が「存在」しているというセンス・オブ・ワンダー(驚きの念)がある。